カテゴリー「politics」の記事

2008年7月12日 (土)

赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

  奥平剛士
  これが俺の名だ
  まだ何もしていない
  何もせずに 生きるために
  多くの代価を支払った
  思想的な健全さのために
  別な健全さを浪費しつつあるのだ
  時間との競争にきわどい差をつけつつ
  生にしがみついている
  天よ 我に仕事を与えよ
    (奥平剛士天よ、我に仕事を与えよ』)




サラーハ(安田安之) バーシム(奥平剛士)
(序章社 『 序章 9号 三戦士追悼特集』より)


赤軍−PFLP・世界戦争宣言 (1971/日)

製作: 若松プロダクション
監督: 若松孝二 /足立正生
編集: 赤軍 (共産主義者同盟 赤軍派)/ PFLP (パレスチナ解放人民戦線)
音声: 戸浦六宏 /中島葵 / 重信房子/ 岩淵進 / 松田政男 / 足立正生





無名にて死なば星らにまぎれんか
               輝く空の生贄として (寺山修司)



   オレたちは想像することができる。
   オレたちはどこへでも行くことができる。
   そしてオレたちは、奴らに向けてブッぱなすことができる。
   オリオンの三ツ星よ、八・一六のまつりの空に輝け!
   オリオンの三ツ星よ、いつの日か、
   奴らに向けてブッぱなされる銃声が、
   オマエたちを追悼するのを聞くことがあるだろう。
   (72年8月京都 テルアビブ2兵士追悼集会 集会基調 より)






関連記事 ; 重信房子 インタビュー 1973
日本赤軍関連video(YouTube Playlist)

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2008年1月 9日 (水)

国鉄 スト権スト

国鉄 スト権スト

「。。。総評の闘いとして8日間ストをやったわけですが、にもかわらず結局は公労協以外の公務員関係や、民間の特に交通部門、つまりハイヤー、タクシー、バス、トラック、飛行機、船も、全部平常通りでした。それは公労協以外はストをやる決定がなかったためですけどね。
 でもね、日本労働運動の再生とマッカーサーによる弾圧体制からの脱皮、つまり憲法に保障された権利の回復という日本労働運動の最大の課題について連帯行動がとれなかったというところが最大の問題でした。それは戦後日本労働運動の総決算であると同時にその敗北をも意味しました。
 やる側は一生懸命やったけど、連帯が作れなかった。一面的に言えば唯我独尊的だったと言われても仕方のないことですね。民衆との乖離が余りにも大きかったということだと思います。

 。。。あれだけストをやって、それでも物流がほとんど滞らなかったんですよ。昔は国鉄が一週間ストライキやったら内閣がふっ飛ぶといわれたんですよ。ところが、1週間超えたにもかかわらず市場原理がそのまま通り、生鮮食料品も高騰しなかった。物流の構造が変わったことが、事実においてわれわれに突きつけられた。となると、王様ぶって『ストライキやればなんとかなる』っていうのは、もう違うと思いました。」
( 「松崎明が語る ③ 苦渋」より)



関連リンク ;

国電乗客暴動 - 1973

国労(Wikipedia)
マル生運動(Wikipedia)
スト権スト(Wikipedia)
松崎明(Wikipedia)

松崎明が語る①大いに吼える(pdf)
松崎明が語る②決断(pdf)
松崎明が語る③苦渋(pdf)
松崎明が語る④改革(pdf)
松崎明が語る⑤未来(pdf)

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ハイエク 来日講演 (1978)

ハイエク 来日講演 (1978)


参考video ; The Road to Serfdom (YouTube より)



InternetArchiveより

講演ノート/「世界不況からいかに脱するか」

フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ハイエク

今日日本でも景気後退している。しかし、容易に脱する方法はない。 政府が政策によって景気の回復を図ることが出来ると考えているならそれは誤りである。

景気後退の基本的な原因は政府が過去に行ってきた政策の誤りである。 その結果発生した景気後退を是正する容易な方法はない。 一国経済を運営するのに政策のあるべき道は十分に安定した経済の繁栄をもたらすことである。 そして避けなければならないのは短期的繁栄を目指して長期的経済に打撃を与えることである。

ここ2ー3年のうちにインフレを克服し、ほとんど安定させた金融政策は西ドイツ、スイスなど少数の国を除けば世界でもっともすばらしい成果を収めている。

しかし、日本には外国から圧力が加えられて、日本政府としては賢明と考えていない政策を追求しなければならないことも。タイム誌によると、福田政権がリフレ政策に成功しなければ危機に立たされるだろうと書いていた。この記事はアメリカが日本に対してリフレ政策をとるよう圧力をかけたことを意味する。

リフレ政策をとるべきだという外国からの要求があるのは、日本経済がその結果インフレ化すれば外国にとって短期的に利益になるからである。しかし、政策の結果を議論する前に今日人々が政府の政策を待ってから自分たちの行動を決定し、政府は急速な景気回復を可能にする手段を持っていると確信していることが問題である。

今日本当に不況克服を求めるなら産業が自信を回復し設備投資を行うことが必要である。それに不可欠なのは経済政策が安定し政府が将来何をし何をしないか、確実に見通せることである。最近各国で新聞、経済学者などが政府は契機を完全に回復させる能力を持っていると主張している。

彼らによると、政府はすきなようにある経済成長率を実現できるようだ。しかし、どの政府も成長率を選択し実現することは不可能である。可能なのは成長を促進する諸条件を整備することだけである。そしてこれに成功したとしても、特定の成長率を達成できなくする環境的諸条件が発生する可能性がある。特定数値の経済成長率が達成可能などという人は全く信用できない。

今景気回復を速めるための政策をするなら、やがて今までよりもっと大きな不安定を発生させる。本当に利益になるのは、人々に自信を持たせ経済環境を安定させることだ。リフレをしろという外圧にゼッタイ負けないこと。リフレ政策の結果はインフレの加速以外の何者でもない。通貨の供給は必然的に増大し、インフレが再燃する。

もちろん、短期的には実物経済も好況化し、多くの人にとってインフレは魅力ある政策となる。この考えは30年前にケインズが言い出して、以後この考えに影響されて政策を運営してきた。しかし、長期的に見るときインフレは決して失業対策とはならず寧ろ失業の原因である。

明日の好況を考えるか、明後日のあるべき姿を考えるか。明日のことしか考えない政治屋たちは長期的には経済をますます悪化させる。真のステーツマンは一国経済に長期的危害を及ぼすことなく安定した繁栄へと導く。大衆の現在の欲求や外圧に屈さず本来の経済的安定をもたらす政策を推進するべきである。

今日の基本的命題である、失業をもたらす本当の原因は何かに移る。失業をなくすには、十分な需要さえあれば良く、需要を刺激することで解決するという素朴な考えがある。過去30年間、完全雇用を達成したければ総需要を増やせばいいという考えが人々を支配してきた。しかしこれは根拠がない。

失業の発生には別の理由がある。ケインズが登場する前に経済学者間で議論の一致していたのは、失業が発生するのは総需要と総供給という単純な関係によるのでなく、需要が経済の諸部門にどのように配分されるのか、供給がそれらの異なった部門にどのように配分されるかによるということであった。部門ごとにみて、需要供給に不一致があるときに失業が発生する。

つまり、配分されている諸需要と供給の間に不均衡が発生するときに失業が発生する。ところで、短期的に経済を拡大させようとすると政策は必ず信用拡大を伴う。それによって経済に短期的ブームがおきることは事実である。しかし、これを別の面から見ると、信用の拡大によって生産資源が経済のインフレ利益のある特定の分野に流れ込み、ある特定目的のための設備投資や建築物が増える。

それらの拡大された生産資源、資本財は刺激策が続いている限りにおいて成立するものだ。しかし、信用の人為的拡大は決して永遠に続くものでない。この好況はその国が持っている貯蓄でまかなわれたものでなく、信用の人為的拡大によってもたらされたものであり、その拡大が終わったとき不況に陥り、失業を生み出す。

ただ、どんな場合でも総需要政策をとる必要がないと言ってはいない。一つの部門の不均衡が他部門に波及し不況が加速化していき、本当の不況過程が発生したときは、一刻も早く通過金融の拡大策を断行しなければならない。

しかしながら、今日の各国経済はそうした事態にはない。今日ある状況はスタグフレーションである。一方で経済成長率が停滞しているが、一方でインフレが依然存在している。そうした経済で総需要の刺激策を採ればインフレの再燃以外にない。

経済の本当の繁栄を望むなら、需要と供給の諸部門への配分の仕方をここで改めて行くことが必要である。生産資源の適正な再配分を実現すること。しかし、そうした生産要素の再配分、需要供給の配分の調整が政策によって人為的に行われうるわけではない。それは、市場の動きに任す以外にない。需要供給の配分の再構成を図るために必要な情報を何人も一カ所で持つことはできない。

市場は無数の経済単位が持っている情報を動員、伝達して教えてくれる。価格機構は何が不足し何が過剰かのシグナルを我々に与えてくれる。

私がいいたいのは、一つは一時的ブームを図ってもその結果不況が発生してくると言うことである。将来、必然的に景気の反動的な後退をもたらすようなブームを発生させないように注意しないといけない。もう一つは、それに失敗し、一時的ブームの反動として深刻な不況になった場合それを是正するための政策過程は苦痛に満ちたモノになり、これを急に是正するのは極めて難しいということだ。

生産よその再配分を進める場合に重要なのは相対価格がどうなっているか、それにとって相対的な需要と供給がどういう関係にあるか、不均衡があれば是正する方法である。市場の伸縮化なくして不可能。今の不況を克服するためには、各産業間においてこれまでより活発に労働その他の資源が自由に移動できるよう市場を伸縮的なモノにする必要がある。

次に、経済の硬直性の問題
今日の不況から脱するには賃金やいろんな財の価格を伸縮的にし、生産要素の再配分を容易にしていくこと。そこで第一に重要なのは、相対的賃金体系を伸縮的にすること。私の理解では、日本の相対的賃金水準は欧米ほど硬直でない。ここ2、3年相当伸縮性がみえる。

ケインズ派の経済学の人は賃金体系は本来極めて硬直的でどうすることもできない与件だという。ケインズは完全雇用が達成されなくてはならないという。しかし、ここでの完全雇用とはケインズタイプの完全雇用である。それには第一次大戦直後のイギリスの特殊事情が背景にある。

イギリスは第一次大戦後ポンドの過大な切り上げのため実質賃金が対外的に高いものになった。当時のイギリス経済で完全雇用を達成するには実質賃金の引き下げをするしかなく、そこでインフレを発生させようとした。

さらに今日、西欧諸国において労働組合の政治的力のため名目賃金が極めて硬直的なものになっている。賃金はいまや労働市場で決定されるのではなく、政治的に決定されている。それ故産業部門間の労働の移動もかつてほど自由でなくなった。それを背景にして、総需要の管理政策がとられ、総需要を増大させることで物価水準を引き上げ、名目賃金の実質価値を引き上げ、完全雇用を達成する形になってしまった。相対的賃金体系の伸縮性は完全に消えてしまっている。

私はイギリス国籍だが、残念なことにイギリスは労働市場における抜本的な改革がなけれ破産に陥る運命にあると言っていい。労組はその政治的権力を増大させたために、利益を増大させるどころか自らを自らの手で傷つける。

もうひとつ、賃金でなく、労働者自身の産業分野間の移動の硬直化。相対的賃銀水準が伸縮的なら平均賃金水準はより早く上昇するハズ。ところが日本ではそれだけで問題は解決しない。相対的賃金体系の伸縮化に加えて、労働構造が変化している経済的諸条件にすみやかに対応していくことが困難に見えるからである。

他の産業分野、会社の賃金が今日より高くても労働の移転が発生しない状況があるようだ。労働者自身の移動という面で、労働市場の伸縮性が他の国ほどあるように見えない。今日、終身雇用制は必要としている構造改革のさまたげになっている。そのために西欧諸国の場合には必要とされないような特殊な対応策を必要とするかもしれない。

しかし、この問題についての本当の分析はまだ日本にないようである。その分析が進み、それに基づいた対応策が労働市場で取られれば、日本経済は先進国でももっとも発展する経済になるだろう。(1978)

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2007年12月31日 (月)

Rita Martinson - "Soldier, We Love You"

Rita Martinson - "Soldier, We Love You"

"Soldier, We Love You" lyric ;

I read that you took a stand
And refused to kill in Vietnam.
You said no man was your enemy
What he's fighting for is to be free.

Ghetto streets lead nowhere
Ghetto cries fill the air.
Uncle Sam's in Nam to loot and rob
And people starve at home cause there's no jobs.

Oh ain't it hard
To smile sometimes?
I know it's hard
To smile sometimes.

Soldier, we love you
Yeah, soldier we love you
Standing strong
'Cause it's hard to do
What you know you must do
Cause it's true
Yes, it's true.

They locked you up in their stockades
Yeah, they locked you up 'cause they're afraid
That you would rap and spread the word
But you can't jail truth, it will be heard.

Oh, ain't it hard
To smile sometimes?
I know it's hard
To smile sometimes.

Soldier, we love you
Yeah, soldier we love you
Standing strong
Yes, it's hard to do
What you know you must do
Cause it's true
Yes, it's true.

FTAとは、ジェーン・フォンダらの参加した反ベトナム戦争のロードショー・グループ。
1971年12月13日に、ベ平連も連帯しつつ、復帰前の沖縄 コザ琉米親善センターで、2千名の米兵を前に公演した。

FTAの活動は翌1972年、ドキュメンタリー映画 " F.T.A. "にまとめられた。同作は長らく観賞困難な状態だったが、その一部が2005年公開のドキュメンタリー映画 " Sir! No Sir! "に使用された。

沖縄でのFTAショー(ドキュメンタリー映画" Sir! No Sir! "からの引用)

 

現在、" F.T.A. "はGoogleVideoで全編公開(以下参照)となっている。


 

関連post ; ベ平連 小田実(1932年6月2日-2007年7月30日)

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2007年12月13日 (木)

Tropicalismo

Tropicalismo

In 1964, Humberto Branco had taken over the government in a military coup, recessed the Congress, and started cracking down on leftists and political rivals.
At the same time, hordes of idealistic youth like Gilberto Gil poured into the capital, bringing fresh ideas and creative new directions in music, film, and art - and challenging the military dictatorship.

With Caetano Veloso, Gil was one of the founders of Tropicalia, a musical movement born in 1967, which was influenced by poesia concreta, a genre of Brazilian avant garde poetry,and fused bossa nova with Brazilian folk music, rock, and political and social messages.
At the same time, the Tropicalia art movement was exploring new directions in graphics and architecture, while Cinema Novo (New Cinema) directors were exposing the country's vast poverty.

The new generation of Brazilian artists absorbed everything from campus protests in Berkeley and Black Panther rhetoric to the French New Wave and Norman Mailer as they formulated their own contributions to the late-60s creative explosion.

Tropicalismo Playlist

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2007年11月 7日 (水)

ロシア革命 90周年

ロシア革命 ( 十月革命 ) 90周年

Ninety years ago today - October 25, 1917 (November 7, N.S.) - , a small band of determined revolutionaries overthrew the Russian government and established the world's first Marxist state.

The Bolshevik October Revolution



映画ソビエトのいちばん長い日」の舞台となった
左翼エスエル「7月モスクワ蜂起」

関連リンク ;

ロシア革命

国民文庫リスト

国際革命文庫

あのプラウダ

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2007年8月 8日 (水)

東アジア反日武装戦線

東アジア反日武装戦線

「終曲」 (斎藤和 作)
  凍てた花はすぐ枯れる。
  でも新しい芽は割れ
  水は音を立てて流れ始める。
  君と一緒なら
  でもわたしには
  戦が待っている。


「...人間というものは本当に不思議なもので、ニヒリズムを通過してこそ真の理想主義にいきつく。
 あの人たちの世界は狭いが、結局僕も同じともいえるのですね。 僕は人を殺すために爆弾をつくっているわけじゃなくて、人の胸の中で何ものかを 爆発させようと思って一生懸命考えている。似たことをやっているのですね。 やはり、ある種の精神を圧殺し、ある種の精神を解放しようと思っているわけです。 そして、あの人たちは間接的にでも人を殺したら、自分をも殺さねければならないと 思っていたわけですね。これはいいことだと思いますよ。
 革命家は、毛沢東でもレーニンでも、革命が終わった日に、皆自殺すべきだ。 権力者となって生き残ったら、革命家としては終わり、というのが僕の持論です。 爆弾闘争を行った青年たちには大衆の支持がなかった、という批判があるが、 多くの人の支持を得るということは、もともとむずかしいですね。 結果においての支持であって、支持は理論以外で求められない。 しかし、理論というものはある運動の形成を経ないとできない。
 何といっても、いろんなことをやっているうちに中の数人が考えて理屈づけるということで、 初めに理屈があったわけじゃないんですよ」
(埴谷雄高 「週刊現代」昭和50年6月12日号)


    さらば日本 滅び行け日本よ
    被征服原住民の血の海の中に
    被征服原住民の肉と骨とで建国された
    征夷天皇日本よ
    俺は友を募りて旅に出る
    お前を撃ち滅ぼす為の
    お前を地上から永久に消し去るための
    世界革命の長途へと
    手には怒りの武器を持ち
    心は詞花で武装して
    我等は勝利の旅に出る
    いざ集え 輩よ
    我等が反日の旅立ちで
    (REAL & CONTEMPORAINE 又は A-MUSIK - 「反日ラップ」)

       壊され歪められた この体のジュースを
     ここで枯らしてやるのさ 生き返るためにと
     次に続く赤子たちには 新しい夢 くれてやるのさ
     俺のために お前のために おのれのためにと
    勝ち誇ったやつらの 息の根を止めるために
     燃え立ちあがる炎は 黒煙を導き
     くすんだ光に照らし出される バルーンで迎え撃つ
     銀色の鳥は干からびた明日を目指して
     歪みきった地の果てへと 高く鳴いて飛び立つ
     勝ち誇ったやつらを 食いちぎるためにと
      東の大地に埋もれた たくさんの骨は
      モンスーンに乗ってやってくるぜ 牙を向いた顔で
      俺の体によみがえれ 黄色の砂と交えて
      誰のために 誰のためにと 言うこともなく
      (REAL - 「大地の牙」)



東アジア反日武装戦線は、1960年代後半の黒ヘルグループに源流があり、日本国家をアジア侵略の元凶と見なし、解体することを目標とした。運動は1970年代半ばに集中し、連続企業爆破事件を引き起こした。中核派革労協革マル派が、党派闘争で手一杯の時期に台頭した。
思想や主張の内容から、監視対象とされた一名に対する捜査により、1975年5月19日、芋づる式に逮捕され壊滅する事となった。 一連の事件は、“”、“大地の牙”、“さそり”の三班に分かれて起こしている。

1971年(昭和46年)
大道寺将司(まさし/法政大中退、会社員)が片岡利明(法政大中退、会社員)、大道寺あや子(大道寺将司の妻/星薬科大卒、会社員)と東アジア反日武装戦線<狼>グループの前身部隊を結成した。
12月12日、大道寺らによって、熱海にある「興亜観音像」と「殉国七士の碑」を同時に爆破。

1972年(昭和47年)
4月6日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、朝鮮に対する日本の侵略支配を正当化するものであるとして、鶴見の曹洞宗大総持寺常照殿(納骨堂)を爆破。
10月23日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、アイヌモシリ侵略思想とアイヌ文化遺産収奪の拠点としての役割を果たしてきた北海道大学文学部の北方資料館と、日帝 ― 道庁 ― 日本人植民者によるアイヌモシリ征服の過去を形容する「風雪の群像」を同時に爆破。 

1974年(昭和49年)
3月に大道寺将司、片岡利明、佐々木規夫らによって“狼”部隊が結成され、腹腹時計(兵士読本VOL1)を出版する。

腹腹時計』 (はらはらとけい)
1974年3月に発行され、爆弾の製造方法とその仕掛け方やゲリラ戦の方法までを詳細に解説した教程本。「兵士読本VOL1」とも呼ばれる。 奥付けは、<兵士読本VOL.1 一九七四年三月一日発行 頒価一〇〇円 編集・東アジア反日武装戦線〝狼〟兵士読本編纂委員会 発行・東アジア反日武装戦線〝狼〟情報部情宣局 東アジア反日武装戦線〝狼〟情報部印刷局>となっている。

8月14日、東アジア反日武装戦線<狼>グループは、この日の午前10時58分~午前11時2分に、東京と埼玉の間にある荒川鉄橋を通過する「御召」列車(天皇は毎年7月末ごろ、那須御用邸にいき、8月14日午前に特別列車で帰京して、翌15日の戦没者追悼式に出席する)を爆破する計画(天皇暗殺攻撃=虹作戦)を立てていたが中止した。 
8月15日、韓国において、時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生していた(文世光事件)。この事件の犯人文世光は、黒ヘルと多少の繋がりがあるとされるプロレタリア軍団傘下の高校生組織「暴力革命高校生戦線」出身であった。
8月30日、午後0時45分、東京・丸の内にある三菱重工業ビル(現・文部科学省ビル)1階ホールが、正面玄関前に“狼”が仕掛けた時限爆弾によって爆破された(三菱重工ビル爆破事件)。サラリーマンら8人が死去、380人が負傷

三菱重工爆破事件ドキュメンタリー

10月14日、午後1時過ぎ、<大地の牙>グループの斎藤和(都立大中退、ウエイター)、浴田(えきた)由紀子(北里大卒、臨床検査技師)らが、東京都港区西新橋の三井物産本社を爆破。
11月25日、東アジア反日武装戦線<狼>グループが、東京都日野市の帝人中央研究所を爆破。
12月10日、東アジア反日武装戦線<大地の牙>グループが、東京都中央区銀座2丁目の大成建設本社を爆破。
12月23日、東アジア反日武装戦線<さそり>グループの黒川芳正(都立大中退、会社員)、宇賀神寿一(うがじんしんいち/明治学院大生)、荒井まり子(法政大中退、東北大付属医療技術短大生)らも合流し、東京都江東区の鹿島建設工場敷地内を爆破。
12月23日、“さそり”によって鹿島建設が爆破。

1975年(昭和50年)
2月28日、東アジア反日武装戦線の3つのグループが、東京都港区北青山の間(はざま)組本社ビルと埼玉県与野市(現・さいたま市)の間組大宮工場を同時に爆破。
4月19日、東アジア反日武装戦線が、銀座7丁目の韓国産業経済研究所、尼崎市のオリエンタルメタル社を爆破。
4月28日、東アジア反日武装戦線が、千葉県市川市の間組作業所を爆破。
5月4日、東アジア反日武装戦線が、間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破。
5月19日、東アジア反日武装戦線の大道寺将司(当時26歳)、佐々木規夫(当時26歳)、大道寺あや子(当時26歳)、片岡利明(当時26歳)、斎藤和(当時27歳)、浴田由紀子(当時24歳)、黒川芳正(当時27歳)、荒井まり子(当時24歳)の8人が韓国産業経済研究所爆破容疑で逮捕された。メンバーは逮捕された場合は青酸カリで自決するように決意していたが、逮捕時に青酸カプセルを飲んで自決し得たのは斎藤和のみであった

東アジア反日武装戦線 連続企業爆破事件 - 1974&1975

5月23日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一(当時22歳)、桐島聡(当時21歳/明治学院大生)が韓国産業経済研究所爆破容疑で全国指名手配された。
5月25日、東アジア反日武装戦線が、東京の立川警察署北口交番など9ヶ所の交番を爆破。
5月28日、荒井まり子の姉のなほ子が走行中の列車から飛び降り自殺した。
6月13日、「七士の碑」など4件の共犯者とされた藤原義美(元法大生)も自殺した。
7月19日、東アジア反日武装戦線が、北海道警察本部警備課内を爆破。

[ クアラルンプール事件 ]
8月4日、日本赤軍の奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。日本で勾留中の京浜安保共闘の坂口弘と赤軍派の松浦順一は出国を拒否した。

日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975


これ以降も、東アジア反日武装戦線によって切り開かれた爆弾闘争は、同戦線を名乗る後続部隊からさらに、「世界赤軍日本人部隊やみのつちぐも」「世界革命戦線大地の豚」「世界革命反日戦線・タスマニア1876」といった新グループによる神社や大学、企業などへの攻撃と多角化していく。また、「東アジア反日武装戦線KF部隊」「手・足としっぽの会」「反帝反日通信編集委員会」の名で、東アジア反日武装戦線の教本であった『腹腹時計』などの続編や爆弾闘争支援文書も刊行され、爆弾志向の潜在的広がりをみせる。

1976年(昭和51年)
1月6日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、平安神宮を放火。
3月2日、東アジア反日武装戦線が、札幌市の北海道庁を爆破。同庁舎1階ロビーに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、2人が死亡、95人が重軽傷を負った。この日は、1899年(明治32年)に制定された「北海道旧土人保護法」の公布日に当たっていた。爆発後、市営地下鉄大通り駅のコインロッカーから、東アジア反日武装戦線の署名入り犯行声明文が見つかった。それには、<道庁を中心に群がるアイヌモシリの占領者どもは、第一級の帝国主義者である>と書かれていた。 公安警察は、これらの爆弾犯人として加藤三郎をマークしていた。加藤は岐阜市内で職務質問を受けた際、爆弾材料の除草剤などを残して逃走した。加藤の行方を突き止めるために、交友関係を洗っているうちに、大森勝久が浮かんできた。大森は道庁事件現場で目撃されている不審な人物に肉体的特徴が似ていた。捜査本部は札幌市の間借り先を家宅捜査し、爆弾製造に使う工具を発見した。
8月10日、大森勝久は爆発物取締法違反容疑の別件で逮捕された。
9月1日、さらに、大森は道庁事件で再逮捕され、道警事件で再々逮捕された。だが、大森は完全黙秘を続けた。
9月10日、警察庁は大森の共犯者として、加藤三郎を全国に指名手配した。

1977年(昭和52年)
1月1日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、京都梨木神社を爆破。
2月21日、世界革命戦線大地の豚が、大阪東急観光を爆破。
5月2日、世界革命戦線大地の豚が、東大法文1号館を爆破。
6月30日、世界革命反日戦線・タスマニア1876が、三井アルミ社長宅を爆破。

[ ダッカ事件 ]
9月28日、日本赤軍の丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、坂東国男、西川純と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。 その9人とは、日本で収監中の日本赤軍の奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派の城崎(きのさき)勉と植垣康博、京都地方公安調査局爆破事件の大村寿雄、当時の皇太子夫妻に火炎ビンを投げつけた(ひめゆりの塔事件)知念功、無期懲役刑中の強盗殺人犯の泉水(せんすい)博、懲役10年の判決を受け控訴中の殺人犯の仁平(にへい)映である。泉水、仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。
10月1日、この9人のうち、植垣、大村、知念の3人は、立場が違うなどの理由で出国を拒否したが、奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人は釈放に応じた。6人を乗せた日航機は羽田を出発し、午後、ダッカ空港に到着した。釈放犯6人、現金600万ドル(当時で約16億円)と交換に人質が解放された。その後、クウェート、シリアを経て、6日間の飛行ののち、アルジェリアのダニエル・ベイダ空港で人質全員を解放した。 当時の福田赳夫首相は「人命は地球よりも重い」と述べ、犯人の要求をのんだ。この「弱腰対応」は世界各国から批判を浴びた。 尚、浴田は1995年3月24日に日本赤軍の一員としてルーマニアで潜伏活動をしていたところ身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去となり日本へ向かう飛行機内で逮捕、裁判で懲役20年の判決を受け、現在栃木刑務所にて服役中。2017年3月22日出獄予定。

日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977

ひめゆりの塔事件 - 1975

10月27日、部族戦線が、東京都渋谷区の神社本庁を爆破。この時点で部族戦線のリーダーが加藤三郎ということが判明した。
11月2日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、東本願寺大師堂を爆破。

1978年(昭和53年)
10月28日、東アジア反日武装戦線が、間組第2ハザマビル工事現場を爆破。

1979年(昭和54年)
11月12日、東京地裁は大道寺将司、片岡利明に死刑、黒川芳正に無期懲役、荒井まり子に懲役8年の判決を言い渡した。弁護側は控訴した。

1982年(昭和57年)
7月12日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一が逮捕された。
10月29日、東京高裁は東京地裁での大道寺将司、片岡利明、黒川芳正、荒井まり子への判決を支持して控訴を棄却した。

1983年(昭和58年)
3月29日、札幌地裁は大森勝久に対し死刑を言い渡した。
5月18日、部族戦線の加藤三郎が逮捕された。

1987年(昭和62年)
3月24日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大道寺将司、片岡利明に対し上告を棄却した。これで死刑が確定した。戦後の政治犯として、初の死刑判決であった。現在、「三菱重工本社ビル爆破には殺意がなかった」として、第2次再審請求中である。黒川芳正は無期懲役、荒井まり子は懲役8年と1、2審の判決通りであった。荒井は未決勾留通算により、同年11月、出所した。 片岡は養家の姓を継ぎ、「益永」となった。

1988年(昭和63年)
1月21日、札幌高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し札幌地裁での死刑判決を支持して控訴を棄却した。
4月、東京高裁は部族戦線の加藤三郎に対し懲役18年の判決を言い渡した。

1989年(平成元年)
7月14日、最高裁は加藤三郎に対し上告を棄却した。これで懲役18年が確定した。
1990年(平成2年)
2月27日、最高裁は東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一に懲役18年の判決を言い渡した。

1994年(平成6年)
7月15日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し1、2審の死刑判決を支持して上告を棄却した。だが、大森は冤罪を訴え続けている。

1995年(平成7年)
3月24日、日系ペルー人を装って、ルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が逮捕された。

1998年(平成10年)
2月12日、斉藤和、佐々木規夫らに思想的影響を与えた、『朝鮮人強制連行の記録』で知られる朴慶植が「交通事故」にて逝去。奇しくも、2月21日に金大中が大統領に就任する10日前の出来事であった。

2002年(平成14年)

7月4日、東京地裁は浴田由紀子に対して「爆弾による攻撃という過激な手段を用いて、社会変革を目指した短絡的、独善的な犯行」と述べ、懲役20年(求刑・無期懲役)の判決を言い渡した。判決は「爆弾の威力は強力で、周囲の者を死亡させる可能性を認識していた」と、浴田に未必の殺意があったと認定。一方で、「長い歳月を経て、被告は社会変革のために人に危害を加えるのは誤りだったと自覚している」とし、無期懲役は重過ぎると判断した。また、20年の刑期から、5年半に相当する未決拘置日数(2000日)を差し引くことになった。
7月30日、北海道庁爆破事件で、爆発物等取締罰則違反、殺人罪などで死刑が確定している東アジア反日武装戦線の大森勝久は、札幌地裁に再審を請求した。弁護団によると、爆弾についての北海道警の鑑定結果を否定する新証拠を提出したという。道警は大森の自宅から、爆弾の主原料となる塩素酸系除草剤を検出したとの鑑定結果を提出した。しかし、検出には約10時間の検査が必要で、鑑定結果は虚偽であると指摘している。

2004年(平成16年)
5月24日、浴田に対する1審での懲役20年を支持した2審での判決を不服として被告側が上告した。
8月5日、浴田が上告を取り下げ、懲役20年が確定した。

2006年(平成18年)
11月22日、東京地裁(栃木力裁判長)は大道寺将司と益永利明の第2次再審請求について請求を棄却した。弁護側は三菱重工ビル爆破に使用された爆弾の新たな鑑定に基づき、「爆弾の威力がこれほど強いとは認識していなかった。殺意はなかった」と主張したが、決定は「威力を正確に認識している必要はなく、再審を決定する明白な証拠にあたらない」として退けた(第1次再審請求は1991年、最高裁で特別抗告が棄却された)。即時抗告。

2007年(平成19年)
3月19日、札幌地裁(半田靖史裁判長)は大森勝久の再審請求審で請求を棄却した。半田裁判長は、えん罪を主張した弁護側の新証拠について「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じるとは到底認められない」と判断した。弁護側は即時抗告する方針。
6月5日、東京高裁は大道寺将司、益永利明の第2次再審請求で、「再審を開始する理由はない」として、2人の即時抗告を棄却した。

現在、日本赤軍メンバーの坂東国男、佐々木規夫、松田久、奥平純三、大道寺あや子、仁平映の6人と東アジア反日武装戦線の桐島聡が逃亡中である。


関連書籍 ; 大原デジタルライブラリー 社会・労働関係 和書データベースより

No. 1
標題:新左翼運動獄中書簡集/副標題:
著者:信濃太郎編著/出版者:新泉社/出版月:1994.3/頁数:195p
叢書:/請求記号:308-Sh69/番号:1025187
No. 2
標題:あの狼煙はいま/副標題:
著者:東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議編/出版者:インパクト出版会/出版月:1996.9/頁数:251p
叢書:/請求記号:308-H55/番号:1030207
No. 3
標題:狼煙を見よ/副標題:戦後ニッポンを読む 東アジア反日武装戦線“狼”部隊
著者:松下竜一著/出版者:読売新聞社/出版月:1997.10/頁数:292p
叢書:/請求記号:308-Ma88/番号:1032843
No. 4
標題:テロ 新装版/副標題:東アジア反日武装戦線と赤報隊
著者:鈴木邦男著/出版者:彩流社/出版月:1999.9/頁数:237p
叢書:/請求記号:313-Su96/番号:1035784
No. 5
標題:友へ/副標題:大道寺将司句集
著者:大道寺将司著/出版者:海曜社/出版月:2001.5/頁数:239p
叢書:/請求記号:720-D15/番号:1039630
No. 6
標題:子ねこチビンケと地しばりの花/副標題:未決囚十一年の青春
著者:荒井まり子著/出版者:径書房/出版月:1986.10/頁数:315p
叢書:/請求記号:289-A62/番号:1040150
No. 7
標題:明けの星を見上げて/副標題:大道寺将司獄中書簡集
著者:大道寺将司著/出版者:れんが書房新社/出版月:1984.2/頁数:275p
叢書:/請求記号:308-D15/番号:1040159
No. 8
標題:反日思想を考える/副標題:死刑と天皇制
著者:東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議編/出版者:軌跡社(発売:社会評論社)/出版月:1991.1/頁数:308p
叢書:/請求記号:308-H55/番号:1040160
No. 9
標題:爆弾世代の証言/副標題:東京拘置所・死刑囚監房から
著者:片岡利明著/出版者:三一書房/出版月:1985.5/頁数:173p
叢書:/請求記号:308-Ka83/番号:1040161

参照元LINK ;
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ
日本赤軍と東アジア反日武装戦線
東アジア反日武装戦線関連項目(Wikipedia)
東アジア反日武装戦線 関連ビデオ(YouTube Playlist)
でもわたしには戦が待っている―斎藤和(東アジア反日武装戦線大地の牙)の軌跡 (単行本)
A-MUSIK HomePage
A-MUSIK反日ラップ」について
リアル<燃え尽きた日章旗の彼方に>
1989.02.02@下北沢 屋根裏/リアル・ワンマンライブ
映画腹腹時計」 と 渡辺文樹 について
コンサート「反日アンデパンダン」について(83年秋、和光大学)
東アジア反日武装戦線“さそり”宇賀神寿一(ナックルズMOBILE NONFIXアーカイブ)

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2007年7月30日 (月)

ベ平連 小田実(1932年6月2日-2007年7月30日)

ベ平連 小田実 ( 1932年6月2日 -2007年7月30日 )



小田実(おだ まこと、1932年6月2日 -2007年7月30日 )は日本の作家、平和活動家。ベ平連(Beheiren)創設者。
1932年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に「難死」と呼んだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。
東大卒業後にフルブライト留学生として渡米。南米や欧州、アジアなどを回った旅行記「何でも見てやろう」(1961年)はベストセラーとなった。
2002年、米国の雑誌タイムズ(アジア版)で、「アジアの英雄」に選ばれた。
2007年5月自身が胃ガンである事を公表した。同年7月30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去。享年75歳。自宅は兵庫県西宮市大浜町1の41の801。
奇しくも、安倍内閣成立後の初の大きな国政選挙となる第21回参院選で、自民党が1955年結党後に、初めて(自民党にとっての)野党が第一党になるという惨敗の結果を生んだこの日、ベ平連で共に活動した作家、小中陽太郎は、小田の思い出をこう振り返った。
「45年にわたる付き合い。人生の師であると同時に同志。小田さんの意義はただの市民がベトナム戦争を境に大きな運動を作ったこと。政治家になるのではなく、あくまで市民としての立場から発言するのが小田さんの基本だった。大きく日本の政治が変わるかもしれないこの時、激動の時期の夜に亡くなるというのは小田さんらしい波乱の人生だった」


小田実の葬儀は8月4日午後、東京都港区の青山葬儀所であり、作家の大江健三郎や井上ひさし、評論家の加藤周一、元衆院議長の土井たか子ら約800人が別れをつげた。
葬儀のあと、地下鉄の青山一丁目駅近くまで、有志が追悼のデモをした。
葬儀で、鶴見は「黒船到着以来の日本の150年の中で、ジョン万次郎と肩を並べる大きな人」、加藤は「彼の呼びかけは格別の説得力をもっていた。今も私たちに呼びかけているし、その呼びかけに応えるところに、我々の希望は開けている」と述べた。このほか日本文学者のドナルド・キーンらが、文学でも市民活動でも国際的なスケールだった小田をしのんだ。

小田実葬儀での吉川勇一による弔辞(全文)
吉川勇一「小田実の遺志」◎難死の原点を真剣に生きる(全文)
鶴見俊輔「共同の旅はつづく」 (『朝日新聞』2007年7月31日)
吉岡忍「小田実 さんについての文 3編」(全文)

訃報を伝えるニュース動画(1)(クリックして再生)
訃報を伝えるニュース動画(2)(クリックして再生)

ベ平連時代から晩年のニュース動画(クリックして再生)

ベ平連


beheiren ベ平連 - The Intrepid Four - 1967


森達也放送禁止歌』ドキュメンタリー
「かつてフォークソングが時代の花形だった1960〜1970年代には体制を批判したり 、揶揄したりする数々のプロテストソングが生まれ、"放送禁止歌"の烙印を押され、い つの間にか闇へと消えていった。そう、あの数々の歌は一体どこにいってしまったのだろうか?」
フジテ レビ NONFIX 1999/5/22放送





Price for Love & Peace: Walk out of the War
documentary film of Beheiren made by independent filmmaker ; Masayo Sodeyama


小田は60年安保の時期から、平和運動を開始する。1965年2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」など、アメリカ軍のベトナム戦争に対する本格軍事介入を受けて、哲学者の鶴見俊輔、作家の開高健、政治学者の高畠通敏らと、1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」を結成。同年、吉川勇一が事務局長になる。その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。1974年1月に、パリ協定調印後のアメリカ軍のベトナムからの全面撤退を受け解散した。
1967年4月には画家岡本太郎・筆の日本語で「殺すな」と大書した反戦広告を米ワシントン・ポスト紙に掲載する。
また、1971年12月にはジェーン・フォンダらの米FTAショー・グループ来日と連帯。12月13日に FTAショーは、沖縄のコザ琉米親善センターで、超満員2千名の米兵を前に公演した。

沖縄でのFTAショー(ドキュメンタリー映画"Sir! No Sir!"からの引用)

ドキュメンタリー映画"FTA"(全編 ; GoogleVideoより)
Fuck The Army is an inspiring 1972 film that follows the Fuck The Army tour throughout Asia during the Vietnam War, rallying thousands and thousands of GIs against US imperialism.


参考 ; 沖縄コザ暴動 - 1970


    小田実によるベ平連の格言 ;
    1.何でもいいから好きなことをやれ!
    2.他人のすることにとやかく文句を言うな!
    3.行動を提案するなら、まず自分が先にやれ!
    (出典 ; 小田実「私は死がこわい」p.255)


いわゆる新左翼党派からは、ベ平連にたいし「小ブルジョア市民主義者」「ソ連邦の極東戦略の共犯」との批判もあった。当時、革マル派はベトナム戦争について「スターリニストに軍服を着た労働者である米兵を殺させる(ゆえにベトナム戦争反対)」という立場であり、中核派は「北部ベトナムホー・チ・ミン政府=南ベトナム民族解放戦線不支持・ベトナム人民連帯」(その立場から1975年のベトナムの最終的勝利を「サイゴン失陥」=米帝は誤ってサイゴンを陥落させた=『解放勢力』の勝利そのものは支持しない、の意)と表現したように、「反スターリン主義派」はアメリカ(帝国主義)と戦う勢力ならば無条件で支持する、というような立場からはほど遠かった。しかし、全共闘運動新左翼思想/世界観に胚胎するこうした極端な前衛/独善主義は対立党派間での内ゲバの先鋭化を促し、70年代には「反革命」の肉体的殲滅を志向する殺し合いの常態化した「戦争」状態に陥った。

ベ平連は中心的な指導部が全体を統制するのではない、ある種のネットワーク型の組織や、自由意思による参加が原則で、政治的信条や思想を問わない、「来る者拒まず、去る者追わず」という異なるものを排除しない論理、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、それまで既成組織(社共の革新政党や労働組合)が中心になって行った教条的で閉鎖的な市民運動の枠を大きく超えた反戦平和運動であった。小田はその支柱となった。ベ平連にはマルクス主義者も少なくなかったが、小田はマルクス主義を始め特定の思想を決して信奉しなかった。ベ平連に全共闘運動出身の若者が流入し、「内ゲバをも辞さない討論と対決のなかからのみ、強固な連帯が生れる」と主張したとき、小田は彼らを「人間」や「連帯」に絶望したことのない「ひとりよがりの甘ちゃん」とみなした。ベ平連を新左翼系の若者が批判しても、「まあ、どうでもいいんだよ」とうけ流していた。小田はよく、「人間みなチョボチョボや」と述べた。万人が常に偉大であることはありえないが、「どんな人間でも、あるときには、偉大であり得る、正しくあり得る、誠実であり得る、美しくあり得る」というのが持論だった。懐疑主義者でありながら作家であり社会運動家だった、彼らしい信念だった。小田はおそらく、自分が欠点皆無の偉大な英雄だったと描かれることは好まないだろう。しかし彼は、「あるとき」には偉大であり、誠実であり、美しかった。彼自身の望みであるかはわからないが、歴史に名を残す人物だったことはまちがいない。

反戦脱走米兵援助
ベ平連はアメリカ軍の良心的脱走兵の支援も行い、これらの活動はベ平連とは別にJATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)として運営され、ソビエト連邦などの支援を受け、ソ連極東部のウラジオストックへの定期便やレポ船などを使い、少数の脱走兵をスウェーデンなどの軍事中立国に脱出させる事に成功した。
尚、スウェーデンに渡った元反戦米脱走兵のテリー・ホイットモアが、7月11日、アメリカ、メンフィス(彼の故郷)の復員軍人医療センター(Veterans Medical Center)で死去し、7月21日、ジオン寺院(Zion TempleCOGIC)で葬儀が行なわれていた。墓地は New Park Cemetry on Horn Lake Rd.。
小田の死に先立つ突然の訃報であった。

参照元Link ;
小田実のホームページ
旧「ベ平連」運動の情報ページ
吉川勇一の個人ホームページ
ベ平連DATABASE ; 作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科)
小田実の著作(Amazon)
岡本太郎と「殺すな」 ; 岡本敏子(岡本太郎記念館館長)へのインタビュー
ベ平連の京都での街頭行動(「古川豪の写真館」 より)
鶴見良行 文庫
ベトナム戦争脱走兵のホイットモアさんに会った(鈴木邦男 ; 今週の主張・2004年6月7日)
訃報(朝日新聞) ; 作家の小田実さんが死去 国際的な反戦運動に尽力
訃報(毎日新聞) ; <小田実さん死去>市民の視線貫く 国動かした行動力
訃報(産経 ZAKZAK) ; 小田実激動の夜に死す…ベ平連、「何でも見てやろう」
訃報(Livedoor PJニュース) ; 【追悼】小田実さん死去。生前、パブリック・ジャーナリズムの方向性語る

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2007年7月20日 (金)

宮本顕治 (1908年10月17日 - 2007年7月18日)

宮本顕治 ( 1908年10月17日 - 2007年7月18日 )


宮本顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日 - 2007年7月18日)は、山口県光市上島田出身の日本の文芸評論家、政治家、元参議院議員。日本共産党の元中央委員会議長で、2000年11月からは名誉役員。晩年は東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘の私邸で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。 最晩年は体調不良により入退院を繰り返す日々であったが、2007年7月18日2時33分、老衰のため都内の病院で死去した。98歳であった。

訃報のビデオ(1)を見る
訃報のビデオ(2)を見る

参考 ; 日共 六全協 - 1955

参考 ; 伊藤律 帰国事件 - 1980

各紙の報道より ;
宮本顕治さん死去(赤旗)
宮本顕治さん死去にあたって 志位和夫(赤旗)
宮本元議長の密葬しめやかに(赤旗)
宮本顕治元共産党議長、死去(産経新聞)
「好敵手だった」「最後の大物の一人」宮本元議長死去(産経新聞)
首相「ご冥福祈る」 宮本氏死去で各党から悼む声(産経新聞)
「大きな仕事された」志位共産党委員長 宮本前最高議長死去(産経新聞)
【評伝】マニュアル革命家の偽善 宮本顕治元共産党議長、死去(産経新聞)
朝日新聞
時事通信
毎日新聞 特別編集委員・岸井成格
毎日新聞
読売新聞
読売新聞地方版(出身地・山口県光市での反応)
愛媛新聞(宮本の出身校・旧制松山高校が愛媛県所在)

関連Link ;
宮本百合子(Wikipedia)
共産党問題、社会主義問題を考える(宮地健一のホームページ)
れんだいこの「日共解体新書」
『社会・労働運動大年表』データベース(法政大学大原社会問題研究所)
パンフレット「真実を見つめて下さい。共産主義の真実」(2000年の衆院選挙の際、全国的に配布)

参考 ; 伊藤律と沖縄

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2007年7月16日 (月)

重信房子 インタビュー 1973

重信房子 インタビュー 1973





 無名にて死なば星らにまぎれんか         
         輝く空の生贄として (寺山修司)


 

重信房子 ( Fusako Shigenobu ) は、日本赤軍 ( Japanese Red Army )の最高指導者。1971年2月共産主義者同盟赤軍派国際根拠地論に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚。1972年5月30日、奥平剛士は、民間人ら100人以上を殺傷したテルアビブ空港乱射事件 ( Lod Airport massacre )で死亡

「日本赤軍と東アジア反日武装戦線」(無限回廊)
四方田犬彦パレスチナ・ナウ」より;

1971年2月にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』で司会を務めていた山口淑子は、クルーを組織してレバノン、イスラエル、エジプトを取材し、難民キャンプの実態を「中東レポート」として日本のお茶の間に紹介した。彼女はその後、足掛け三年にわたってパレスチナ問題のTV報道を続けた。三年目の1973年ヨーロッパで、重信房子のインタビュー取材に成功、同年の8月14日に放送され、テレビ大賞優秀賞を受けた。

 

参考;本インタビューに関して、橋本敦(日本共産党)による質疑
   於・ 第084回国会 法務委員会 第13号
       (昭和五十三年六月一日(木曜日))


参考; 日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975

参考; 日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977

日本赤軍関連video(YouTube Playlist)


映画「実録・連合赤軍」と岡本公三

Online Videos by Veoh.com


頭脳警察世界革命戦争宣言~銃を取れ!

参照Link:
帰国者の裁判を考える会
重信房子さんを支える会

関連記事 ; 赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

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2007年7月14日 (土)

回想 全共闘

回想 全共闘

連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する

回想 全共闘(YouTube Playlist)


参考: 全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968

参考: 全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969

参照Link;
1968年全共闘だった時代
全共闘48万が立ち向かったもの
日大全共斗博物館
日大闘争by日大全共闘
東京大学安田講堂での記録写真

時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(1)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(2)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(3)
山本義隆(Wikipedia)
山本義隆 著作(Amazon)
今井澄(Wikipedia)
全学共闘会議(Wikipedia)
東大紛争(Wikipedia)

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2007年7月 8日 (日)

Tokyo in 1967 - the combustion point

Tokyo in 1967 - the combustion point

Japanese Student Movement in the Sixties ;
from Zengakuren to Zenkyoto ( The Student Left in Japan )





from the Rolling Stone mag article ; " Tokyo in 1967 "

The image of students in Tokyo getting high on imported birdseed doesn't jump to the fore.
"The simplest way for people to get marijuana was in pet stores," recalls Koji Takazawa ( 高沢皓司 ), a leader of Zenkyoto, an alliance of Japanese student movements in the 60s. "There were hemp seeds in the birdseed, so people bought the birdseed and grew their own marijuana."

Japanese Psychedelic Hippie ( フーテン族 ) in Shinjuku 1967



In the West, little is known about Japanese youth movements of the 1960s, but the Zenkyoto, Zengakuren, and other movements were hugely popular in Japan, protesting Japanese involvement in the Vietnam War, spurring interest in Western music and art, and calling a generation to action, as parallel movement did around the world.The student movement began to mobilize in 1960, when the Japan-US Joint Security Treaty was signed and thousands of University students took to the streets in protest.

Protest against the Japan-US Security Treaty in 1960



In the following years, protests grew louder and angrier, as the military campaigns escalated. "1967 was the year the student campaign really escalated," says Takazawa. "A student was killed in a conflict with riot police and as a result, there was a huge outcry and a big wave of protest." From 1967 to 1970, students at 167 Japanese universities went on strike as part of the Zenkyoto movement.



Protest against PM Eisaku Sato at Haneda Airport in 1967






Zenkyoto Movement in 1968



Zenkyoto Movement in 1969







Yukio Mishima and Zenkyoto @ University of Tokyo in 1969
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