カテゴリー「documentary」の記事

2010年5月18日 (火)

55本のビデオで見る55年体制下の日本

55本のビデオで見る55年体制下の日本

55 videos for Japan under the 55-year system



here are the vids

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2008年11月22日 (土)

渡辺はま子 モンテンルパの夜は更けて

渡辺はま子
(1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)





慰問歌手
渡辺はま子(わたなべはまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前か ら戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名加藤浜子。生涯横浜で過ごした。愛 称は「おはまさん」。横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった 。祖父がアメリカ人でクオーターであった。

昭和8年(1933年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業。卒業後は、横浜高等女学校(後の 横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、昭和10年の秋には教職を辞し、渡辺はビクターの流行歌手 に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラ ジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡辺は終生を通じ、ハンセ ン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。

昭和12年(1937年)4月コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国 の花」が渡辺にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も 積極的に行うようになり、「シナの夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人 々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのた め、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った名曲「何日君再来」も渡辺が唄い、レコードが日本で発売され ることになった。

さらに当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビア から国内で日本語で発売する際には、渡辺がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といっ た曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。

戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされ る。が、その間も渡辺はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国 後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病に失う不幸に見舞われた。

モンテンルパの夜は更けて ( 誰か昭和を想わざる より)
ここに一つの歌がある。「ああモンテンルパの夜は更けて」、昭和27年のヒット曲である。懐かしい針音 の前奏に出だしの1番は宇都美清という男性歌手のソフトな歌唱、2番を渡辺はま子が歌っている。哀切 極まりないメロディのこの曲はモンテンルパの獄中で、死刑判決を受けていた代田銀太郎が作詞、伊藤正 康が作曲したもので、同年の6月に譜面が渡辺はま子の元に送られてきた。同月には渡辺はま子自身の持 ち込みでビクターでレコード吹き込み、スター歌手の流行歌の持つ力は馬鹿にならない、それまでも復員 局の植木信良が受刑者減刑に打ち込んできていたが一個人の力には限界がある、渡辺はま子の「ああモン テンルパの夜は更けて」はすでに戦争の記憶が遠くなりかけていた日本人に大変な反響を巻き起こしたの だった。

そこで渡辺はま子はある決断を下す。それは現地のモンテンルパを渡辺はま子自身が訪れ、受刑者たち を直接、慰問する事だった。しかしフィリピン政府のビザはなかなか下りない。やむなく通過査証を使っ て見切り発車でフィリピン行きを決めた渡辺はま子。出発ぎりぎりになってフィリピン政府からビザが下 りる。これで晴れて戦犯慰問の名目でモンテンルパへと向かう事が出来たのである。「ああモンテンルパ の夜は更けて」には心ない人からの売名との中傷もあった。しかし海外渡航、それも戦犯の収容されてい る刑務所訪問など困難極まりない話を最後まで諦めずに実現させた渡辺はま子の熱意、これを本物と言わ ずして何と言おう。

モンテンルパの受刑者たちとの感激の対面を果たし、懐かしい日本の歌の数々を披露した渡辺はま子。 明けて昭和28年、「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーを刻んだオルゴールがある人の元に贈 られた。フィリピンのキリノ大統領である。ようやくの思いで大統領との面会を果たした加賀尾秀忍は、 卑屈な泣き落としでの戦犯減刑などは頼まず、ただキリノ大統領にオルゴールを渡した。静かにオルゴー ルの音色に耳を傾けたキリノ大統領は「この哀しい歌は何という曲か」と加賀尾に問うた。「モンテンル パの死刑囚が作った曲である」との加賀尾の答えに、キリノ大統領はしばし沈思した。その後、1時間、 キリノ大統領は自身の戦争中の思い出を静かに加賀尾に語ったという。それは昭和20年、日米のマニラ市 街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と娘を失った話であった。加賀尾とキリノ大統領との 面会から1ヵ月、昭和28年6/27、モンテンルパの全受刑囚の日本送還と、全死刑囚59人の無期への減刑 がフィリピン政府によって発表されたのだった。7/22午前8時40分、白山丸にて一行は横浜大桟橋に帰 国した。

晩年
昭和56年、勲四等宝冠章を受賞。昭和60年におしどり夫婦として知られた渡辺の夫が亡くなったショック もあり、この頃から認知症を発症、平成元年に引退。引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあ り、家族以外の者との会話がほぼ困難になり、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の平成 11年のクリスマスの日、長女は渡辺にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気 のため表情を変えることのなかった渡辺が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。遺言に従 い親族だけで密葬を済ませ、平成12年1月、かつての所属会社のビクターから正式に渡辺の死が明らかに された。


参考リンク;
渡辺はま子 (Wikipedia)
誰か昭和を想わざる モンテンルパの夜は更けて
誰か昭和を想わざる 昭和歌手名鑑

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2008年10月 6日 (月)

パンク対ヘビーメタル ・・・?

パンク対ヘビーメタル ・・・?




(1990年4月21日)

出演者 -
「みんなちゃんとしてますよ。」

司会者(芥川賞作家・大学教授) -
「もういいよ。俺だってやだよ。最初からおかしいよ。おかしい矛盾。」(※OA経過30分後)



参考リンク ; 小熊英二の東大軽音時代〜80年代自主制作音楽事情回想
「。。。ただ80年代のインディー界のほうが、良くも悪くも思い込みが激しいというか、ロックに対して幻想がまだ持てていた時代だったので、今の人たちより「自分たちの世界に真剣にどっぷり」というバンドが少なくなかった(出していた音の質の良し悪しは別として)ということは言えるかと思います。録音をしてレコードを出すということじたい、当時は現在とは比較にならないくらいお金もかかり特別なことでしたから、余計にそうだったと思います。」

関連記事 ; インディーズの襲来

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2008年9月24日 (水)

THIS IS SKA!

THIS IS SKA!


This is SKA! ディス・イズ・スカ!




ビデオでの演奏曲目 ;
  1. JAMAICA(N) SKA / Byron Lee And The Dragonaires
  2. LAST NIGHT (SKA) / Byron Lee And The Dragonaires
  3. SAMMY DEAD(-O) / Eric “Monty” Morris
  4. ONE EYED JACK(S) / Jimmy Cliff
  5. WASH WASH / Prince Buster
  6. TREAT ME BAD / The Maytals
  7. SHE WILL NEVER LET ME DOWN / The Maytals
  8. SO MARIE / The Charmers
  9. ROUGH AND TOUGH / Stranger Cole
  10. TWO ROADS BEFORE ME / Roy Panton And Yvonne Harrison
  11. I DON’T KNOW / The Blues Busters
  12. SAMMY DEAD-O / Byron Lee And The Dragonaires
  13. KING OF KINGS / Jimmy Cliff




 アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカと、地元民族との出会いの場所であるカリブ海には、驚くほど幅 広い音楽文化が存在する。
 国民全体の所得が低い国では、家で聴くためのレコードに金を注ぎ込む人はあまりいないが、みんな で集まって踊りたいと思うのはどこでもいっしょである。ほかのカリブ諸国では、この欲求を満たすた め、19世紀にルーツを持つ音楽 - サルサ、ソカ、サンバ、カリプソ - でパーティーをしていたが、ジ ャマイカでは民族音楽メントもそれほど広まっていなかった。さらに、ジャマイカが戦後急速な都会化 に向かうと、新たな都会生活に似合ったサウンンドトラックが求められるようになる。
 それがアメリカ音楽、ひいてはアメリカから影響を受けた音楽だった。アメリカに住む多くの移民か ら故郷にレコードが送られてきたこともあり、さらにジャマイカはアメリカ本土に近いためラジオ放送 も受信できた。特にマイアミのWINZ、ナッシュビルのWLAC、ニューオーリンズのWNOEなどがよく聴かれ ていた。
 穏やかな夜にはファッツ・ドミノやアモス・ミルバーン、ロイ・ブラウン、プロフェッサー・ロング ヘアなどのサウンドが、何千人というジャマイカ人のAM受信機に流れ込み、メンフィスやニューオーリ ンズの音楽を、そのシンコペーションの効いたシャッフル・ビートとともに、この島の音楽テイストの 核心に送り込んだ(後年大きな影響力を与えた人気アーティストにはオーティス・レディング、サム・ クック、ソロモン・バーク、ベン・E・キング、リー・ドーシーらがいるが、特にカーティス・メイフ ィールドの影響が大きい。)ジャマイカの近年の音楽史は、大部分がこうしたアメリカからのサウンド に対する答として見ることができる。スカ、ロック・ステディ、その後のレゲエ、すべて輸入音楽を地 元で解釈し直したところから生まれている。

 全長200マイルしかないこの熱帯の火山島で、ダンス・ミュージックのきわめて本質に関わるコンセ プトの多くが初めて肉体を得た。
 「あんな小さなところに、こんなでかいものが詰まってるんだ。」ジャマイカ音楽の世界的権威、ス ティーヴ・バロウは、驚嘆をあらわにする。「ジャマイカを見たら、だれでもまさかと思うだろう・・ ・あんなちっぽけな場所が、あれだけの影響力を持てるはずがないって。でもリミックスはどこから出 てきた?ミックスでドラムとベースを前面に出したのは?パーソナリティDJが自分だけのダブ・プレー トをプレイするのは?だれにも否定できないさ。デッキを操作する人間が操るテクニック - そのほと んどがジャマイカで発展したんだ」




(「レゲエ/無限のヴァージョン」
Last Night A DJ Saved My Life ; そして、みんなクレイジーになっていく』
 共著 ; ビル・ブルースター & フランク・ブロートン より抜粋)



関連記事 ; Soul Weekenders

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2008年9月23日 (火)

山口小夜子 ( Sayoko Yamaguchi )

山口小夜子 ( Sayoko Yamaguchi )

インタビュー

"意図を排除して自分を無にすることから本質に触れる。"




資生堂TVコマーシャル一覧



山口 小夜子(やまぐち さよこ、 - 2007年8月14日)は、日本の、ファッションモデル、ファッション デザイナー。神奈川県横浜市出身。

杉野ドレスメーカー女学院卒業後にモデルとなり、高田賢三山本寛斎のショーで注目を集めた。72年 にパリ・コレにデビュー。以後パリおよびニューヨークプレタポルテコレクションに出演。73年資生堂 の専属モデルとなり、海外・国内ともに活躍し始める。77年にアメリカのニューズウィーク誌で「世界 の6人のトップモデル」に選ばれた。おかっぱ頭に切れ長の目の容姿で日本人モデルのブームを巻き起 こした。

女優としても、寺山修司演出「中国の不思議な役人」などに出演するなど演劇、映画、コンテンポラリ ーダンスに活動の場を広げた。衣装デザインも手がけた。

80年代に入るとダンスパフォーマンスの世界に進出。86年舞台「忘れな草」(演出・佐藤信)に出演。 88-96年「月の駅」「石の花」「NOIJECT」「HERE to HERE」など、勅使川原三郎ダンスカンパニーの数 々の作品に出演した。89年NHK音楽ファンタジー「カルメン」に主演。国際エミー賞公演芸術部門優秀 賞を受賞。勅使河原宏監督の映画「利休」に出演。95年三宅一生のパリコレクションに出演し、久しぶ りのパリコレ参加が話題となった。96年「NOIJECT」でアトランタオリンピック・アートフェスティバ ル部門の公演に参加。2001年には鈴木清順監督の映画「ピストルオペラ」、翌年に二階健監督の映画「 Soundtrack」に出演していた。

山口さんは1人暮らし。関係者によると、連絡を取れなくなっていたことを不審に思った親族が自宅を 訪ねたところ山口さんを発見。すぐに病院に運ばれたが、2007年8月14日に急性肺炎のため死去してい たことが確認され、同年8月20日付の各社報道となった。葬儀は親族だけで執り行なわれ、9月19日にお 別れの会が開かれた。

享年57歳(但し、所属事務所は年齢を公表していない。)。



参考動画 ; 寺山修司インタビュー

 

関連リンク
山口小夜子さん追悼インタビュー (婦人公論 2007年9月22日号)
山口小夜子インタビュー (LEE/1984年2月号)

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2008年9月14日 (日)

Patti Smith - "NY is the thing..."

Patti Smith - "NY is the thing..."


Patti on NY -


“New York is the thing that seduced me.
  New York is the thing that formed me.
  New York is the thing that deformed me.
  New York is the thing that perverted me.
  New York is the thing that converted me.
  And New York is the thing that I love too.”

  (from an interview on the BBC in 1971)


Dream of life (trailer)



関連記事 ; CBGB Remembrance - 1973-2006

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2008年8月12日 (火)

New Romantics

New Romantics


Only came outside to watch night fall with the rain
I heard you making patterns rhyme like
Some new romantic looking for the TV sound
I'll see you're right some other time love
Duran Duran - Planet Earth


A Fine Romance
documentary chronicling the rise and fall of the New Romantic movement of the early 1980s.(duration ; 50min)




Top Ten 80s New Romantics
documentary reminiscencing about top 10 influential artists of the New Romantic movement of the 1980s. (duration ; 75min)




ロンドン・クラブ・ファッションの変遷(長澤均)
 この10年、クラブがファッションに及ぼした影響は計り知れない。それはパンクが終わった70年代後半のニュー・ロマンティックスより始まった。そしてクラブ・ファッションがアシッド・エイジの洗礼を受ける80年代後半まで、さまざまなデザイナーがさまざまなアイデアをストリートに投げかけていった。これは音楽とクラブを繋ぐもうひとつの文化史だ。

『ハイ・ファッションとストリートの間』
 そもそも80年代の大きな潮流となるファッションは70年代半ばに、その端緒が形成されたものだ。いわずと知れたパンクからニューウェイブの流れである。
 まず、ある新しいスタイルはミュージック・シーンと連動してストリートで形成される。それはつねに、それ以前のモードへのアンチ・スタイルとして現れるが、広範な支持者を得るに従って服飾業界のシステムにのったモードへと変質してゆく。この過程でストリート・スタイルを加工し、モードの領域に移行させるデザイナーがいる。いわゆるインディーズ・ブランドと呼ばれる存在である。そしてハイ・ファッションの世界が、ストリート・スタイルをモードとして公認したとき、すでにそこにはストリートの荒々しさや生命力は跡形もない、というわけだ。

『クラブから生まれた「ニュー・ロマンティクス」』
 クラブとファッションの相互侵犯関係はパンク終熄後に始まった。その最初の大きなムーヴメントは78年頃に始まる「ニュー・ロマンティクス」である。パンクの"破壊"から一種の"創造"へと移行する時期に生まれたこのムーヴメントのスポークスマンとなったのはスティーヴ・ストレンジである。当時の人気ショップ[P・X]の店員であった彼が、元リッチ・キッズのドラマーでDJ、ラスティー・イーガンとソーホーにある[ビリーズ]を週一回借りて始めたクラブが、ポスト・パンクの最初の動きとなる。彼らはその後、コヴェント・ガーデンの[ブリッツ]に場所を移すが、ここにクリエイターやその卵、いわゆる"BLITZ KIDS"が集まり、まず「フューチャリスト」と呼ばれるモノトーン主体の未来派スタイルが生まれる。いうまでもなくクラフトワークに代表される、当時のテクノ・ミュージックの流行にインスパイアされたものだ。しかしこれも長くは続かず、80年代に入り、彼らが場所を[ヘル]に変えた頃から、今度は手の平を返したようにヴィクトリアン・ファッションが流行り始める。この復古スタイルはあっというまに[ラ・キルト]や[ビートルート]といったクラブに及び、さらにはスパンダー・バレーなどのミュージシャンをも巻き込み、ニュー・ロマンティックスという大きなムーブメントとなるのである。
 クラブから新しいファッションが生まれるという、80年代以降、特徴的になる傾向はここから始まったといってよい。この80年代初頭は、クラブやその周辺からインディペンデントのデザイナーが数多く生まれた時期でもあった。有名デザイナーのアシスタントをしたわけでもなく、むろんコレクションを開く資金もないデザイナーたち、しかし彼らがストリートとモードの世界の仲介役を果たしたことは確かである。
 そんなひとりにアンドリュー・ローガンがいる。アクセサリー・デザイナーであった彼は72年から「オルタナティヴ・ミス・ワールド」という催しを始める。これはミスコンのオルターナティヴ版という主旨で始まったが、実質的にはインディーズ・ファッション・ショーというべきものであった。[GOLD]のアースクェイクを思い浮かべてもらえばいいだろう。ごく内輪で始まったこの催しも81年には[オリンピア]のような大会場で催されるようになり、ロンドンのクラブ・ファッションに多大な影響を与えることになる。ちなみに75年、デビュー前のセックス・ピストルズが演奏したところのひとつに彼の家のパーティーがある。
 帽子デザイナーとして今や、世界的に有名になってしまったスティーヴン・ジョーンズもこの時期に登場したひとりだ。ニュー・ロマンティックス系のファッション・デザイナー、スティーヴン・リナードや無名時代のボーイ・ジョージと同じ通りのスクワットに住んでいた彼も、他のふたりと同様、有名になることでそこから抜け出たのである。
 80年代を通してクラブ・ファッションがどのように変遷したか。そこにはやはり馬鹿々々しいほど単純な法則が働いていたにすぎない。ミュージック・シーンと連動して生まれた流行がある飽和状態に達したとき、すでにそれを否定し、あるいはのりこえる次のスタイルが生まれているということだ。しかしそれも蛇の脱皮のようなもので本質はたいして変わりはしない。社会的制服=スーツに対するアンティパシーによってクラブ/ストリート・ファッションも別の社会的制服を形成しているだけのことである。ファッションというものが本質的に持つ、絶えざる"差異化"と"同質化"という二重構造は、ときに極端なまでにディテールの違いにこだわるかとおもえば、ときに極端なまでに他人と同じになるスタイルを生み出す。しかしそれこそがファッションなのだ。90年代もまた、この二重構造のきしみのなかで新しいユース・カルチャーが生まれるはずである。

クラブ・ミュージックの文化誌(1993年) より抜粋

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2008年8月 9日 (土)

三里塚 幻野祭

三里塚「幻野祭」 (1971年8月14日-17日)



野次馬雑記 より ;

朝日新聞 1971年8月11日-15日にかけての記事 ;

石井新二さん、23歳。彼は成田空港建設反対の青年行動隊員である。
成田の農民にとって、反対闘争は日常化し、生活の一部だ。特殊のものではない。
ふつうの生活には、時期がくればまつりがある。だから、三里塚にまつりがあってもおかしくはない。
「民青みたいだ」との批判があった。シンジは答えた。「民青はもっと統制がとれてシッカリしてるよ」

ただ、この「まつり」には反対同盟や支援学生からの風当たりも強かった。

戸村一作反対同盟委員長 ;
私は祭ということばの響きが好きじゃない。体質的にあわないよ。祭りには思想がない
フーテンやピッピーがギターをかき鳴らす・・。それで人集めしたって・・・
闘争はもっときびしいよ。三里塚農民の涙、怒声、旗、マイクの声、これが私の生活のなかの祭り。
祭りという復古化粉砕、反権力ということがわかっていないんだよなあ

「加藤登紀子、ナンセンス。知床旅情なんか歌うより地下ごうを掘らせろ。その方が反対闘争にとって意義がある。」
駒井野団結小屋の地下ごうからドロだらけで出てきた中核派の学生が言った。
ロックで踊り狂うバカどもに毛沢東語録でも読ませろ。その方がよっぽど反対闘争にとって意義がある。」
これは援農でスイカの取り入れをしていたML派学生
常駐学生は祭りに批判的である。「第二次代執行に向けてなんらの意義がない」


頭警・パンタの対談記事 (テーゼ機関誌『インペリアル・シアター vol.1』(1989年)) より ;



YOSHIAKI ;
その翌年(1971)に三里塚の幻野祭がありますよネ。
で、幻野祭に関しては、「出ない方がよかった」ってことだそうですけど…。

PANTA ;
いまだにそう思います。だから、農民のためのお祭をやるんだったら盆踊りの方がよかったといまだに思ってる。
だから、あれは、ホント、学生のための…でしょ?

YOSHIAKI ;
でも、青年行動隊が頭脳警察のファンだったとか…

PANTA ;
うん、実はそうなんだよネ。だから、結局 熱意に負けたっていうか、折れて…。
そのへんが主体性ないんだけどさ、果たして、あれが良かったのか悪かったのか、そんなこといっても仕方ないけどネ…。

YOSHIAKI ;
そういう事実があったということしかネ…。でも、革共同集会にしても、幻野祭にしても… 
特に幻野祭はレコードになって再発までされて…。
そうすると、実際の三里塚を知らない人…、あるいはゲリラとか内ゲバとかって印象しかない人にとっては、
特にそういったイメージで見ちゃうからなおさらなんだろうけど…、
「三里塚でコンサートがあって、それに頭脳警察が出ていた!これはスゴイ!」って感じで、
妙に話がふくらんでしまう。雑誌など、そのあたり実に無責任というか、平気でそういうこと勝手に書きますからネ。。。


三里塚 成田闘争 関連video (YouTube playlist)


参考 ; '80年代ノンセクト左翼運動とサブカルチャー

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2008年7月12日 (土)

赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

  奥平剛士
  これが俺の名だ
  まだ何もしていない
  何もせずに 生きるために
  多くの代価を支払った
  思想的な健全さのために
  別な健全さを浪費しつつあるのだ
  時間との競争にきわどい差をつけつつ
  生にしがみついている
  天よ 我に仕事を与えよ
    (奥平剛士天よ、我に仕事を与えよ』)




サラーハ(安田安之) バーシム(奥平剛士)
(序章社 『 序章 9号 三戦士追悼特集』より)


赤軍−PFLP・世界戦争宣言 (1971/日)

製作: 若松プロダクション
監督: 若松孝二 /足立正生
編集: 赤軍 (共産主義者同盟 赤軍派)/ PFLP (パレスチナ解放人民戦線)
音声: 戸浦六宏 /中島葵 / 重信房子/ 岩淵進 / 松田政男 / 足立正生





無名にて死なば星らにまぎれんか
               輝く空の生贄として (寺山修司)



   オレたちは想像することができる。
   オレたちはどこへでも行くことができる。
   そしてオレたちは、奴らに向けてブッぱなすことができる。
   オリオンの三ツ星よ、八・一六のまつりの空に輝け!
   オリオンの三ツ星よ、いつの日か、
   奴らに向けてブッぱなされる銃声が、
   オマエたちを追悼するのを聞くことがあるだろう。
   (72年8月京都 テルアビブ2兵士追悼集会 集会基調 より)






関連記事 ; 重信房子 インタビュー 1973
日本赤軍関連video(YouTube Playlist)

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2008年3月22日 (土)

白石民夫とダメなあたし(ロリータ順子Vocal)

65937407_79_2 白石民夫とダメなあたし(ロリータ順子Vocal) - ムキムキマン









TACO - 人捨て節


TACO - 嘔吐中枢は世界の源



Taco - 天国注射の昼 - 1983


タイトル ポケットは80年代がいっぱい
著者 香山リカ

定価 1,575円(税込)
ISBN 978-4-86238-082-1
出版社 バジリコ
発売日 2008/2/28
内容 サブカルチャーの生き証人・香山リカが描く、オシャレ・キュート・アヴァンギャルドな80年代の日々。
伝説の雑誌「HEAVEN」 「」はじめ、貴重な雑誌レコードの写真も収録。
1981 年、サブカルチャー勃興期の渋谷。伝説のカルト雑誌『HEAVEN』の編集部が、香山リカの出発点だった。
そこは祖父江慎町田町蔵巻上公一戸川純浅田彰らが集い、最先端のカルチャー情報が飛び交う、
ちょっと危険な香りが漂う文化サロン。その過激で濃密な交流の日々とは? 
新人類」「ニューアカデミズム」「ニューウェーブ」「テクノ」「スキゾキッズ」など数々のキーワードを生み、
多くの才能を生み出した80年代サブカルチャーの現場を描く、オシャレ・キュート・アヴァンギャルドな80年代クロニクル。
「ニューアカデミズムの旗手」中沢新一と香山リカとの対談『「ニューアカ」と「新人類」の頃』も合わせて収録。

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