カテゴリー「早稲田という病」の記事

2007年4月 3日 (火)

早稲田という病 - 3

早稲田という病 - 3

InternetArchiveより再録


革共同 革マル派

2001年1月1日
「新世紀革命砦一斉蜂起絵」

2002年1月1日
「悪食悪鬼不逞之徒退散元年絵」

2003年1月1日
「戦争乃家 最後の蛮惨之画」

2004年1月1日
「新春オムニバス巨編―鉤十字に明日はない」

2005年1月1日
「カールの動く城 MARX'S MOVING CASTLE」

2006年1月1日
「珍・獣羅叱句罵句 暗夜争闘之絵」

2007年1月1日
「滅全球大暗黒死界・抗ス之絵」

2008年1月1日
「夜行百鬼・破邪顕正之絵」



2009年1月1日
「戦争乃家 最後の蛮惨之画漫・破綻・落壁大瓦落・綺譚  李満亭阿呆久斎」



    正式名称・・・日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派
    同盟員人数・・・推定約1900名
    学生組織・・・日本マルクス主義学生同盟革マル派(マル学同革マル派)
    代表者・・・植田 琢磨(全国委員会議長)

革マル派の本部・支部所在地

本部・・・「解放社本社」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-3解放社ビル , 03-3207-1261

支部

    * 「こぶし書房」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-15 , 03-3207-0928
    * 「学創社本社」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-9 . 03-3232-9005 (FAX 03-3232-9035)
    * 「解放社北海道支社」札幌市北区北37条西7-4-10創文ビル , 011-717-2890
    * 「解放社東海支社」名古屋市中区千代田3-18-30 , 052-332-3327
    * 「解放社関西支社」大阪市東淀川区豊新5-6-5 , 06-320-3356
    * 「学創社関西支社」大阪市東淀川区豊新5-5-12 303号室 高橋方
    * 「解放社九州支社」福岡市南区野間3-9-12 , 092-561-7400
    * 「解放社沖縄支社」宜野湾市新城2-37-14沖縄合同企画ビル内 , 098-893-2937

革マル派の組織図

<特徴・・・縦割り型の組織構成>                  

            全国委員会

          政治組織局(POB)
              |
         -----------
         |           |
      中央労働者      中央学生
      組織委員会      組織委員会
      (WOB)      (SOB)
        |          |
     産別の各委員会     各学生組織


 

革マル派の労働者組織

革マルは、郵政省の「全逓」、NTTの「全電通」などなど、連合系の主要労働組合において無視できない規模のフラクションを保持している。なかでも「JR総連」(柴田光治委員長:組合員7万人)は、新左翼党派が実質的に支配している国内唯一の巨大労組と言ってよい。

革マル派副議長・中央労働者組織委員長の労働運動家・松崎明は、”鬼の動労”と異名を取る「国鉄動力車労組(動労)」のリーダーとして、1970年代には国鉄当局の生産性向上運動に反対する、いわゆるマル生反対闘争で戦闘的な実力闘争を展開した。

国電乗客暴動 - 1973



が、1987年の国鉄改革に際しては、一転して労使共同宣言を結び、分割・民営化への協力姿勢を明らかにした。こうした流れのなかで、革マル系(政研会)・非革マル社会党系(同志会)が勢力的に概ね半々ずつを占めていた「動労」と、民社党系の「鉄労」は、民営化協力路線の下に合併し、「JR総連」を結成したのである。「JR総連」は、最盛期にはJR労働者20万人のうち16万人を組織するまでになった。しかしその後、JR西・九州・東海・四国各労組の旧鉄労系の部分は相次いで「JR総連」を脱退し、92年5月、新たに「JR連合」を結成。旧「動労」の社会党系の部分の多くも「JR連合」に流れた結果、「JR総連」は、旧「動労」革マル系の拠点だった東京・高崎・盛岡などの地方本部を含んでいる「JR東労組」(5万6千人)を除いては影響力を急速に弱めているが、しかしこの結果、革マル支持基盤としての地歩は、かえって着実に純化しつつあるとも言える。

97年の神戸小学生連続殺傷事件においては、JR東日本各駅のキオスクが、事件の容疑者A少年の顔写真を掲載した写真週刊誌「フォーカス」に対して真っ先に販売停止処分を決定した結果、他のJR各社のキオスクもこれに倣うという事態が起きた。これなどは、「JR総連JR東労組」(=革マル)の側の政治的意向が、「JR東日本」経営側の方針に直接反映された典型的な事例である。

 

革マル派全学連

    * 委員長・・・石田 貴裕(早稲田大学・第一文学部)
    * 副委員長・・・猪井 謙二(早稲田大学・第二文学部)
    * 副委員長・・・種井 一平(金沢大学・教養教育)
    * 書記長・・・田代 智之(名古屋大学・法学部)

革マル派の武装組織

学生・労働者に対する革命家としての「教育」において、革マル派が何よりもまず重視するのは、「個人の自己変革を目的」とした、「理論学習」である。デモの戦法やテロ襲撃術などの「軍事訓練」に類する教育のレベルは、中核派や青解派などと比べると、遥かに低い。革マル派の武装部門を担う「全学連特別行動隊」は、構成人数100-200名程度の部隊と見られる。あくまでこれは学生のみによって構成された単なる「ゲバ棒武装」部隊にしか過ぎない。革マル派は、「労働者の武装化」についてはいまだ実際には何ら手をつけていない。

革マル派の諜報活動

偽造警察手帳や偽造公安調査官手帳を使っての「聞き込み」活動、自分たちで製作した合鍵を用いての家宅侵入行為などなど、情報収集活動には非常に積極的なようである。91年のJR東海葛西副社長(当時)の女性スキャンダル暴露であるとか、最近の例でいえば95年の国労中央による亀井静香運輸大臣(当時)らへの1億9000万円献金スキャンダル暴露、昨年以来の神戸小学生殺人事件に関する容疑者A少年の「検事調書」や「捜査報告書」などの情報源も、こうした日々の違法な活動をつうじて入手しているのであろう。

革マル派は、敵対党派とその関係者に対する盗聴を広範囲に行っていることがすでに明らかとなっており、またNHKテレビの電波ジャックを成功させたこともあるなど、無線・通信技術の「活用」能力については新左翼中第1位と言ってよいだろう。96年春以降続発したJRの列車無線妨害事件についても、革マル派の犯行ではないかとの説が、中核派などによって唱えつづけられている。

情報化部門においては、革マル派は同盟員に郵政省職員・NTT職員を多数抱えており、またソフトウェア会社を経営したりもしている。コンピュータ・ネットワークにおける革マル派の潜在的「戦闘能力」も、実は極めて高いと言えよう。

機関誌紙活動

    * 機関紙・・・週刊「解放」(ブランケット版8ページ) 推定発行部数10000部
    * 機関誌・・・隔月刊「共産主義者」

革マル派の機関誌紙活動における大きな特色は、他の新旧左翼勢力を批判する論文・記事の掲載が異様に多いことであり、平均して「解放」各号記事の3分の2程度をこれが占めている。

また最近では、「神戸小学生連続殺傷事件」を「権力の謀略」であるとして弾劾する記事も毎号のように掲載されている。この一連の「神戸事件謀略論」キャンペーンは、実は他党派の内部撹乱を狙ったものと見られ、日本共産党をはじめ、またその他の敵対諸党派にも一定程度の打撃を与えているようである。

反帝・反スタ


革マル派の革命理論は、同派の前議長・黒田寛一の「反帝・反スタ」理論である。これは、トロツキズムの「反帝国主義・労働者国家擁護・スターリン主義官僚打倒」理論を”批判的に摂取”したもので、

国際的には

    * 先進資本主義国家に対して・・・資本主義国家権力・帝国主義打倒
    * 社会主義国家に対して・・・スターリン主義官僚打倒

国内的には

    * 日本帝国主義打倒 +「スターリニスト日共」打倒

の一挙的実現を目指すものであった。「労働者国家擁護」が抜け落ちた一方、「反スターリン主義」が強調されている、という点が黒田の独創である。

革共同第一次分裂において、「100%トロツキスト」を自認していた太田龍の一派(のちの「革共同・第4インターナショナル日本支部」)は、第4インターナショナルの多数派であるパブロ派の、「反帝」と「労働者国家擁護」を主とし「スターリン主義官僚打倒」を従とする理論に従うべきだとの考えから、黒田理論とは相容れず、革共同を脱退する結果となった。

しかしこの黒田理論じたいは、革共同第三次分裂によって黒田らと袂を分かち、以後、革マル派の不倶戴天の敵となっているあの中核派でさえ、いまだに完全には否定しきれていない。中核派は、黒田理論の革命的共産主義運動の発展に寄与した基礎的業績は認めざるを得ず、ただその今日的意義についてのみ、「黒田の理論は何一つ進歩せず、むしろ後退し今日の情勢に全く対応できなくなっている」との批判を加えることができているのみである。

中核派も今なお「反帝・反スタ」を掲げてはいるが、やはりどちらかというと「反帝」を重視する。「反スタ」に重きを置く姿勢こそが、黒田理論を忠実に継承する革マル派の特徴であると言える。

トロツキズム系運動の世界的諸潮流の中における黒田理論の位置づけは、第4インターナショナルにおける少数派であったキャノン派流れに近いものである、と言うことができよう。キャノン派は、「スターリン主義の条件付き擁護」を掲げたパブロ派に反対して、「反帝」と「スターリン主義官僚打倒」を主要な戦略的課題とし、「労働者国家擁護」を従属的な戦略的課題に引き下げるべきことを主張した。

基本路線

現代のプロレタリアートは、「二重疎外」の状況にあると黒田は説く。すなわち、

   1. 資本制下の”賃金奴隷”としての疎外
   2. 「”賃金奴隷”としての疎外」からの解放を任務とする「前衛党」からの疎外

したがって現代における革命は、この「二重疎外」からプロレタリアートを解放する「人間革命」でなくてはならない。そのために必要となる戦術とは、

・スターリン主義の欺瞞性暴露-マルクス主義の「現代的展望」としての「革命的マルクス主義」の理論の確立。(マルクスの理論をそのまま受け継ぐのではなく、「生きたマルクス主義」の「創造」、つまり「革命的再生」を目指す)

・「二重疎外」からの「自己解放」を目指す、新しい「革命的前衛組織」の確立。(「真の前衛党」を建設するためには、党は「たんなる革命家の組織」ではなく、「共産主義的人間としての主体性の確立」を成し遂げる「人間改革の場」でなくてはならない)

の2点に他ならない、という。こうした「理論・組織重視」が革マル派の基本路線である。

運動論

革マル派は、世界情勢に関して、「現代は『革命前夜』的な状況にある」(中核派元議長・本多延嘉の言)などといった現状分析を真っ向から否定しており、中核派の”大衆運動第一主義”を批判している。組織温存路線の立場から、1969年東大全共闘の安田講堂攻防戦では、機動隊の突入を前に唯一講堂から主力部隊を退去させて決戦を避け、同年9月の全国全共闘結成にも参加しなかったため、以後、他の新左翼諸派からはほぼ完全に孤立している。

*参考となる黒田寛一の発言:

「もっぱら危機感をあおりたて、焦燥感にみなぎった空疎な行動に走るのではなく、階級闘争の広大な大衆的組織と組織的基礎を不断に場所的に創造することが先決的任務となる」(『日本の反スターリン主義運動 II』 494ページ)

「決起するのは決定的な瞬間においてのみである」(『組織論序説』268ページ)

 

革命戦術

革マル派は、後進国における革命については「民族主義的限界」があるとして否定的であり、したがって「アジア人民との連帯」であるとか「後進国人民との共闘」などといった戦術に対しても、きわめて限定的な場合にしかこれを採用していない。

また、「革命の形態は武装プロレタリアートの組織化と権力との関係によって決まる」として、「暴力革命」を軽視はしていないものの、「武装蜂起」絶対主義ではない。「暴力革命」実行の可能性に対する立場は、一昔前の日共の「敵の出方による」論に近いと言える。事実、「いわゆる過激派」的な「武装蜂起」の典型として一般に捉えられがちな「爆弾テロ」や「金属弾テロ」・「放火テロ」などを行なっているのはあくまでも中核派や解放派などであって、革マル派は、このような「武装蜂起」は、一度として行なったことがないのである。

行動パターン

「たたかわない革マル」などと呼ばれ、その基本的行動パターンは日和見的であるとされる。これは、革命情勢が到来するまで、ひたすら力量の蓄積を図るべきだとする「待機主義」にもとづくものである。

組織としての「純粋性」を重視する立場から、さまざまな運動における他党派との「共闘」については、革マル派がその運動において「主体性を堅持」できる可能性がない限り、常に否定・敵対的態度をとる。他党派の集会を妨害したり、集会会場に大挙押しかけたり、会場のすぐそばで「独自集会」を開いてみたりする、などの手段によって、「闘争破壊」に乗り出すことも多い。



更新履歴

2007年6月21日 革マル派拠点・解放社を捜索~警視庁公安部

video(.wmv)を見る
警視庁公安部は21日朝、東京・新宿区にある過激派「革マル派」の拠点「解放社」へ家宅捜索に入った。
21日の捜索は、17日に行われた革マル派のデモをめぐって全学連(=全日本学生自治会総連合)の元委員長ら2人が公務執行妨害の疑いで逮捕されたのを受けて行われているもので、警視庁公安部は、革マル派の活動実態の解明を進める方針。

|

早稲田という病 - 2

早稲田という病 - 2

InternetArchiveより再録






リンチ殺害された川口大三郎君



47年11月9日、東大に遺棄された事件の最初の報道。


早大・川口事件

1972年11月8日、東大病院に一人の死体が遺棄された。

9日朝、東京文京区の東大付属病院構内で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署ははだしの足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。

男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった。(毎日72.11.9)


学生の革マル糾弾集会

11月13日正午、早大第一文学部自治会(革マル系)は文学部中庭で、事件後初めて「11.13反省集会」を開いた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって、革マル全学連委員長を辞任した第一文学部4年、馬場素明君も「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。約100人の学生が黙りこくって耳を傾けていたが、午後1時頃、約500メートル離れた本部校舎図書館前で「革マル暴力追放集会」を開いていた一般学生約300人がなだれ込んだ。学生たちは革マル派幹部に本部校舎で集会を開こうと要求、革マル側は文学部構内の記念会堂前広場を提案。約2000人が記念会堂前に集まったが、再び学生の多い本部校舎で開くべきだと一般学生の声。
これに対し、田中敏夫全学中央自治会委員長らは「その必要はない」と拒否したため、学生たちが怒りだし、幹部学生をムリヤリ連れ出そうとした。革マル派学生はキャンパスを逃げ回り、一般学生はこれを追い回し、早稲田通り馬場下交差点まであふれだし、両脇を学生に押さえられた革マル派幹部学生5、6人が本部校舎に連行された。吉本孝男など革マル派学生2名が三週間のけがをするなど、混乱の内に午後2次過ぎ、図書館前で集会が始まった。一般学生が革マル派学生に自己批判を求めてつるし上げする集会となり、一般学生も3000人にふくれあがった。
学生の中から選ばれた議長団が川口君を殺したことの釈明を求めると、田中委員長はしどろもどろになりながら「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない。」との答え。これに対し「人を殺さないとの確約書を書け」「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び会場は騒然。
マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さない。それでも何かしゃべろうとすると、たちまちヤジ。6人は沈黙戦術。
夕方になっても学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なり。警視庁機動隊員200人が待機する中、夜まで抗議集会が続いた。(毎日11.14)

革マル派幹部に対する一般学生の追及集会は14日朝まで延々18時間も続き、徹夜のつるし上げとなった。このため大学側は「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請、初めは「学生を刺激するだけ」しぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に、14日午前8時前川口君殺害事件以来初めて早大構内に入り、6人と一般学生にまじっていた1人の計7人を“救出”した。さらに同署は、6人を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。集会に参加した学生は大学当局が学生を遠巻きにするだけであっさり機動隊導入に踏み切ったことに強く反発、続々とつめかけた約1000人の一般学生が徹夜組の500人に加わり、今度は大学に対する抗議集会を続けた。(毎日11.14)

11.15 糾弾集会
午後二時から事件後三回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000人で行う。田中敏夫は「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」とし、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」という確約書にサインすることを拒否。翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。
田中前委員長は「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕も。

11.16 田中前一文委員長は糾弾集会で「自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく」という内容の確約書にサイン、学生は拍手で受けとめた。



11.17 川口君追悼集会(於:大隈講堂)


川口サトさんも、「大学当局の怠慢と暴力をなくすためにみなさんといっしょに終生闘っていきます」と挨拶、これに対して大学は11.17告示なる管理強化を内容とする告示を発表した。

11.18 糾弾集会で馬場全学連前委員長らが「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」旨の確約書にサイン。各学部でリコール署名がスタート。

11.22 革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで、文学部に乱入。

11.24 革マル約70人が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マルの居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マルの集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか、数名の負傷者を出した。

11.25 革マル派250人(全都動員)、田中敏夫のけがを口実に反撃。

11.27 革マル派全国動員の300名本部前で集会。

11.28 大学当局、ロックアウト。革マル派は、それにもかかわらず文学部181教室を占拠。予定されていた一文学生大会は15号館で他学部学生4000人の支援のもとに1500名を集めて開催。革マル執行部をリコール、臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択。夜には社会科学部も学大を開催。革マルは400名で学大粉砕を叫ぶ。

11.29 同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル鶴巻公園に500名。

11.30 検問体制のなか、政治経済学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。

12.1 商学部学生大会。法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会、民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられた。

12.2 一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足。革マルの反撃は個人テロにエスカレート、これに対して一文行動委員会が結成された。

12.4 川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」と訴えた。大学は村井総長への面会を拒否した。

12.5 本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。文学部では浅井一文学部長の出席で大衆団交。学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサイン。

12.6 村井総長は団交拒否。

12.7 政経学部、新執行部。

12.8 臨時執行部主催「寒い冬を越すための大コンサート」

12.9 冬休みに入る

1.7 全学前段階総決起集会

1.8 全学総決起集会 全学行動委員会、黒ヘル着用。

1.11 政経学部、学部団交。

1.12 団交要求集会

1.13 一文で自治委員選挙告示、革マルのバリケード突破し、選挙

1.16 政経学部、学部団交。

1.17 一文、革マル派の自治委員総会。それに対抗した反革マル部隊が革マルの攻撃を受け、十数名が負傷。

1.18 文学部、ロックアウト。これに抗議する行動委員会などが機動隊と衝突、一名逮捕。夕刻、中核派が革マル派と本部正門前で衝突(中核60名逮捕、革マル逮捕者無し)。

1.19 革マル文連総会。政経学部学生大会。11号館に追いつめられた革マルが投石などで対抗、政経学部生一名、頭蓋骨陥没の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷。


内ゲバによる混乱


1.20 理工学部をのぞき全学ロックアウト。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。

1.22 政経学部、試験阻止。機動隊導入、15名逮捕。

1.23 一文学生大会、1500名で開催。期末試験をストライキで阻止することを採択。1週間ストライキを決定。

1.24 一文行動委員会中心にピケスト突入。革マルとこぜりあい。大学当局、試験延期。

1.25 教育学部、学生大会。一文では自治委員総会成立のための定足数を突破。

1.27 一文、新執行部、自治委員総会開催。

1.29 一文、第二回学部団交。教育学部スト突入。

1.30 一文、学生大会。第二派の1週間スト可決。

1.31 社会科学部、学生大会。一文自治委員総会。

2.1 一文学部団交。

2.2 政経、学生大会で3カ月ストライキ可決。社学団交、教育団交。

2.3 政経、教育で学生大会。

2.5 一文、学部団交。十人委員会総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサイン。

2.6、7 一文で学部集会。一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。

2.8 一文、卒業予定者分離試験実施。10号館で、総長団交要求総決起集会、ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。春休暇に入る。

2.23 48年度入学試験開始(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。

4.1 新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会。



混乱の中行われた入学式には、黒ヘルが乱入、中止となった。


4.2 早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、黒ヘルが壇上に乱入。午前の部の段階で入学式中止。革マル派は式場外で集会。

4.4 革マル派、鉄パイプで襲撃。負傷者30数名、うち重傷10名。

4.5 本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派一名が包囲される。

4.9 二文で小競り合い。4.10 革マル、代々木駅で集団登校の学生に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。

4.11 革マル「統一行動」集会(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。

4.13 教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。

4.14 新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。

4.21 一文学生大会。革マルの妨害行動。

4.23 二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。教育学生大会、革マルの妨害で流会。

4.24 一文自治委員協議会

4.28 革マル220名、「4.28全国集会」のため集会。

5.2 一文、学部団交。革マル10数名壇上に乱入。これにより、学部側が団交継続拒否。

5.4 一文、自治委員協議会で5.2団交の総括。

5.7 一文団交を妨害するために、革マルが全都的動員をかけ、文学部で衝突(2名負傷)。

5.8 総長拉致団交




村井早大総長拉致団交

全学行動委員会は理工学部で講義を行っていた村井総長を法学部8号館301教室に拉致。約2000名の学生が集まる。村井総長は、5.17正式団交を約束。革マルとの衝突も。

5.12 早慶交流集会
慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マルは慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ、東大で集会。
夜、革マル30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。

5.14 革マル、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。
この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。
夕方、一文自治会委員長が法学部8号館前で革マルに鉄パイプで襲撃され、重傷。

5.15 革マル全国動員(500名)で本部集会。

5.16 5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マルの集会。

5.17 革マル派、早稲田一帯を制圧。全学団交実行委など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや、革マルが鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが、機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。

未完

|

早稲田という病 - 1

早稲田という病 - 1

InternetArchiveより再録


革マル派の襲撃に逃げまどう学生(早稲田大)

内ゲバ前史

戦後、革命党といえば日本共産党だけという状況だった。帝国主義の中で共産主義国家を守ったスターリンの下、ソビエト連邦が 世界の共産主義者の総本山として君臨していた。

ところが1955年六全協決議で、共産党中央がそれまでの武装闘争を自己批判。1956年フルシチョフのスターリン批判とハ ンガリー暴動でその信仰にひびが入った。


日共 六全協 - 1955

その動きの中で、共産党が依然スターリンを「間違いはだれにもある」と部分否定するのみで、ソ連の現状を肯定するのに対して、スターリン批判(一国社会主義批判や、ハンガリーに見られた ソ連の帝国主義への批判)するものが共産党から離れ、新左翼を形成していく。

その中で、一貫してスターリンを批判し、スターリンに殺されたトロツキーを再評価するものが57年第四インターナショナル日本支部を結成、その中には黒田寛一、太田竜などがい た。「疎外された人間の人間的=普遍的解放」(マルクス)のためには世界革命を完遂する以外になく、その為にはスターリニス ト打倒のためのもう一つの革命が必要。しかし、太田が100%トロツキストを自認していた(純トロ)のに対して黒田はトロツ キズムは批判的に摂取すべきものと考えていた。

日本共産党と新左翼の批判点
     反共・トロッキストと批判
(共産党)→→→→→→→→→→→→(新左翼)
     ←←←←←←←←←←←←
       スタリーニズム批判

民族解放民主革命の理論(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)で「歌ってマル クス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線をとる共産党(=パルタイ)に対して、共産主義者同盟「ブント」を名乗る。 学生は共産党に反発(6.1事件)、共産党は学生運動(全学連)でのヘゲモニーを失う。こういった動きの中で、60年安保 (6.15国会突入、女子学生の死亡、アイク訪日阻止)は共産党とブントの組織切り崩し合戦となった。しかし、ブントは革命党と して必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊した。そして、その半数は革共同全国委員会に移行(第二次分裂)、 60年ブントは弱体化する。

<60年安保>
米軍の日本駐留の承認、日本の軍事力の増強の義務化と共に、在日米軍が攻撃された場合の日本の軍事行動の義務づけが行われており、事実上の軍事同盟になっていた。


60年安保闘争 - 1960


革共同の一次分裂
革共同→西京司・・・第4インター参加
   →黒田寛一・・・第4インターに不参加→革共同全国委→マル学同

革共同全国委は、黒田、本多が中心となり、国民会議や共産党を右翼的とし、ブントを街頭極左と批判して、中間層を掴んだ。安 保で消耗するブントと裏腹に組織を拡大、全学連書記局を握ったことで全学連を支配した。

そして、マル学同と旧ブント(三派・つるや連合)との間で角材をつかった初の内ゲバが行われた。清水丈夫が角材を初めて使用、 「岡田式暴力的衝突も含めた党派闘争」などといわれた。

 


革マル・中核の指導的人物
黒田寛一)
結核菌で失明し、秘書に読ませて勉強。独特のクロカン節でカリスマ性を持つ。その思想は組織論に独特なものがあり、自派の組織強化を第一義とする。

本多延嘉)
早大細胞の中心、早大新聞、前進の編集を続ける。全国委では黒田の右腕=書記長として活躍。第3次分裂で黒田と袂 を分かつ。

 


反マル学同グループ→後に三派系全学連(後に中核派も入る)

共産党系→民青全学連

革共同全国委は共産党以上の組織をつくると意気がったが、62年参院選で黒田寛一はわずか2、3万票しか獲得できず落選。

マル学同は他党派の集会に押し掛け、統一行動を呼びかけて妨害する。他党派解体路線をとったが、62年大学管理法闘争で学生 運動は高揚期に入っており、この時は他派はむしろ組織を強化してきていた時期で、人気は新しいところ(マル学同を批判す るブント系、社青同構改派)に集まった。

内ゲバの激化

組織の考え方の違い(他党派の批判ばかりする黒田と他党派と共闘する中で引き込んでいこうという多数派の対立)で、黒田と本 多が対立、上部団体の革共同全国委の第三次分裂で、マル学同も分裂。黒田、倉川篤(松崎明)森茂らが革マル派として分かれた。 しかし、親組織では少数派の革マルも学生組織ではむしろ多数派を占めていた。そこで学生組織では反対に、本多派が「中核派」として分離していった。

 


革共同全国委→本多(多数)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中核派(少数)
      →黒田(少数)動労中心、革マル派・・・・全学連(多数)↑

大衆運動への取り組みについての相互批判)

中核→→→革マルの主体性は大衆蔑視のプチブル的主体性、→→→革マル
     セクト主義、理論フェチ、日和見主義
中核←←←革命の主体性を欠いた大衆追随主義、過激主義←←←←革マル

情勢分析についての相互批判)

中核→→→危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義→→→革マル
中核←←←←←主観的、信念に基づく危機感のあおり立て←←←←←←←←革マル

 


63、4年 社学同の分裂(マル戦派、ML派)などセクト分化進む(5流14派)

67/10 第一次羽田闘争で、山崎博昭死亡


佐藤栄作訪米阻止・羽田空港闘争 - 1967

革マル全学連と連合4派(中核+社学同、社青同解放派、構改派)の対立

内ゲバ 63/9 清水谷乱闘事件

    64/7 早大殴り込み事件

暴力導入による問答無用化、その中で奥浩平の自殺(「青春の墓標」)という悲劇も

65年からは、私立大学の学費値上げ反対闘争が盛り上がる。


早大学費学館闘争 - 1966

反代々木系セクトは3つの全学連に)

連合4派→構改派脱落→66年三派全学連→反帝系全学連
                   →中核派全学連(独立)

中核の躍進、民青の台頭の反面、マル学同(革マル派全学連)は、拠点校が早稲田 などに限局され、「ワセダ全学連」と揶揄されるほどに退潮した。 (革マル派は、革マル派の組織拡大強化が革命への道であり、運動は革マル派の組織強化と 考えていた)

大衆運動へのコミットの仕方

中核派は大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという方針なので、人気も 出て勇ましい。しかし、一方逮捕など組織的な消耗を避けられない。

革マル派は、個々の大衆闘争に組織をかけるなどは論外のことだ、と見る。

67年~「激動の7カ月」---この頃、「ヘルメット+ゲバ棒」というスタイルが定着

佐藤訪ベトナム、訪米阻止、エンタープライズ寄港阻止、王子野戦病院阻止、三里塚闘争


三里塚 成田闘争 測量クイ打ち阻止闘争 - 1967

王子野戦病院開設阻止闘争 - 1968

佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争 - 1968


秋山勝行・中核派全学連はとにかく日和らず機動隊に突進する。これに対して、警察はどん どん逮捕して、保釈金で財政的にも締め上げ、弾圧していく。しかし、それでも中核派は勢 力を伸ばし、反代々木系の最大セクトに成長する。

これに対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判、 「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けた。

これには、中核派は革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激 動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判、武闘路線を邁進した。

65年あたりから、機動隊の装備は向上、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメッ トなどが登場する。デモ隊をサンドイッチして行進する「並列規制」などでデモ隊に無力感 を与えた。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンを登場させた。

このような戦術の過激化は、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大生や学生労働者よりは るかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚の農民の影響もあったと思われる。

この時点で、武闘派には中核と反中核、反武闘派には革マル、構改派そして社青同解放派な どがあった。又、反戦青年委員会も各セクト別に分かれていた。

武装闘争期

68年10月 国際反戦デー 新宿で2万人、騒乱罪適用


国際反戦デー 新宿騒乱 - 1968



69年 1月 東大安田講堂事件


全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968



全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969



    4月 沖縄闘争 1.5万人 破防法
    4~12月 学園砦死守闘争 広島大、早稲田大、京都大など
    9月 全国全共闘結成大会
   10月 国際反戦デー
   11月 佐藤訪米阻止闘争


70年安保闘争 - 1969


東大安田講堂事件で、革マルは取り返しのつかない汚点を残した(安田決戦敵前逃亡事件)。

東大では他セクトとともに全共闘に入っていた革マルが機動隊導入の前夜に守備担当していた法文2号館から 退去、そこに機動隊が陣取ることで隣の法研への攻撃を容易にした。これ以後、全国の大学で革 マル派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられ た。これに動揺した革マル派は、今まで批判していた武闘を行うようになった(ありばい闘 争と非難される)。但し、大衆的にやるのではなく、少数の決死隊によってやる。しかし、 いざ内ゲバになると革マルは強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒 りを買うことになる。

69年に激しい武闘を連続させた8派は多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中 核派は逮捕者が多く、逆に革マル派はほとんどなかったために、相対的に組織力が強化され たことになる。これは他派から見れば、自分たちが命がけで戦った成果をかすめ取ったもの だという不満となる。

11月28日 東大裁判欠席判決への抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派が内ゲバ
12月14日 糟谷君人民葬でも参加しようとした革マルと内ゲバ
12月15日 中核派全学連が革マルを武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。

暴力革命論の復活と武闘派

これまでレーニン的な実践的暴力革命論は観念的に受けとめられ、それほど現実的に想定さ れてこなかった。そこに、69年中核派の暴力革命論が登場する。

プレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを 大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズがよく引用された。

69年東大闘争で本格化した火炎瓶は改良され、火をつけなくてもよい触発性火炎瓶に変わ っていく。又、機動隊との正面衝突から少人数軍団編制のゲリラ戦法に。

69年夏 赤軍派が登場。「前段階武装蜂起」

その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力 に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。そして、手製爆弾の製造にと りかかるが、11月5日、大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された。


連合赤軍 浅間山荘事件 - 1972


これを他人事と思えないという中核派に対して、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」 と揶揄した。このころ、警察は中核派に対して本多、藤原、松尾などを破防法で逮捕し、破 防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。


しかし、革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必 要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメということで、中核派は指導部 を公然、非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に 潜行した。

しかし、11月決戦で大敗北し、多数の逮捕者を出し、この状況で12月18日東大裁判支 援集会での内ゲバにも敗れる。しかし、この頃から中核派の反戦労働者が武闘に参加し始め、 また人の殺害に対する処女性を喪失し、死者出てもやむなしという考えに進んでいくことになる。

未完

|