腹腹時計
腹腹時計
[書名] 腹腹時計
[副題]都市ゲリラ兵士読本 Vol.1
[著者/編者]東アジア反日武装戦線“狼”兵士読本編纂委員会
[発行者(者)]東アジア反日武装戦線“狼”情報部情宣局
[発行年月]1974年3月
関連記事 ;
東アジア反日武装戦線
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腹腹時計
[書名] 腹腹時計
[副題]都市ゲリラ兵士読本 Vol.1
[著者/編者]東アジア反日武装戦線“狼”兵士読本編纂委員会
[発行者(者)]東アジア反日武装戦線“狼”情報部情宣局
[発行年月]1974年3月
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東アジア反日武装戦線
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鑑識活動
yahooオークションより ;
「全学連及び全共闘が東京中心に過激な闘争を繰り返していた時代、警視庁が撮影した現場証拠写真で、報道でも撮影出来ない大型接近写真」
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関連記事 ;
機関紙 / 情宣 / アジプロ
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機関紙 / 情宣 / アジプロ
新左翼 各派 機関紙
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参考動画 ; 埴谷雄高 政治をめぐる断想
参照LINK ;
各派の中央機関紙のタイトル
当時の各派のヘルメット
新左翼党派・全共闘機関紙・冊子( 明大全共闘・学館闘争・文連 より)
アジビラ( 明大全共闘・学館闘争・文連 より)
私的・ビラ保管庫( 1968年全共闘だった時代 より)
日大全共斗資料収集室( 日大闘争by日大全共闘 より)
日大闘争関連資料( 日本大学全学共闘会議農獣医学部闘争委員会 より)
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三里塚「幻野祭」 (1971年8月14日-17日)
野次馬雑記 より ;
朝日新聞 1971年8月11日-15日にかけての記事 ;
石井新二さん、23歳。彼は成田空港建設反対の青年行動隊員である。
成田の農民にとって、反対闘争は日常化し、生活の一部だ。特殊のものではない。
ふつうの生活には、時期がくればまつりがある。だから、三里塚にまつりがあってもおかしくはない。
「民青みたいだ」との批判があった。シンジは答えた。「民青はもっと統制がとれてシッカリしてるよ」
ただ、この「まつり」には反対同盟や支援学生からの風当たりも強かった。
戸村一作反対同盟委員長 ;
私は祭ということばの響きが好きじゃない。体質的にあわないよ。祭りには思想がない。
フーテンやピッピーがギターをかき鳴らす・・。それで人集めしたって・・・
闘争はもっときびしいよ。三里塚農民の涙、怒声、旗、マイクの声、これが私の生活のなかの祭り。
祭りという復古化粉砕、反権力ということがわかっていないんだよなあ。
「加藤登紀子、ナンセンス。知床旅情なんか歌うより地下ごうを掘らせろ。その方が反対闘争にとって意義がある。」
駒井野団結小屋の地下ごうからドロだらけで出てきた中核派の学生が言った。
「ロックで踊り狂うバカどもに毛沢東語録でも読ませろ。その方がよっぽど反対闘争にとって意義がある。」
これは援農でスイカの取り入れをしていたML派の学生。
常駐学生は祭りに批判的である。「第二次代執行に向けてなんらの意義がない」
頭警・パンタの対談記事 (テーゼ機関誌『インペリアル・シアター vol.1』(1989年)) より ;
YOSHIAKI ;
その翌年(1971)に三里塚の幻野祭がありますよネ。
で、幻野祭に関しては、「出ない方がよかった」ってことだそうですけど…。
PANTA ;
いまだにそう思います。だから、農民のためのお祭をやるんだったら盆踊りの方がよかったといまだに思ってる。
だから、あれは、ホント、学生のための…でしょ?
YOSHIAKI ;
でも、青年行動隊が頭脳警察のファンだったとか…
PANTA ;
うん、実はそうなんだよネ。だから、結局 熱意に負けたっていうか、折れて…。
そのへんが主体性ないんだけどさ、果たして、あれが良かったのか悪かったのか、そんなこといっても仕方ないけどネ…。
YOSHIAKI ;
そういう事実があったということしかネ…。でも、革共同集会にしても、幻野祭にしても…
特に幻野祭はレコードになって再発までされて…。
そうすると、実際の三里塚を知らない人…、あるいはゲリラとか内ゲバとかって印象しかない人にとっては、
特にそういったイメージで見ちゃうからなおさらなんだろうけど…、
「三里塚でコンサートがあって、それに頭脳警察が出ていた!これはスゴイ!」って感じで、
妙に話がふくらんでしまう。雑誌など、そのあたり実に無責任というか、平気でそういうこと勝手に書きますからネ。。。
三里塚 成田闘争 関連video (YouTube playlist)
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赤軍 - PFLP 世界戦争宣言
奥平剛士
これが俺の名だ
まだ何もしていない
何もせずに 生きるために
多くの代価を支払った
思想的な健全さのために
別な健全さを浪費しつつあるのだ
時間との競争にきわどい差をつけつつ
生にしがみついている
天よ 我に仕事を与えよ
(奥平剛士 『天よ、我に仕事を与えよ』)

サラーハ(安田安之) バーシム(奥平剛士)
(序章社 『 序章 9号 三戦士追悼特集』より)
赤軍−PFLP・世界戦争宣言 (1971/日)
製作: 若松プロダクション
監督: 若松孝二 /足立正生
編集: 赤軍 (共産主義者同盟 赤軍派)/ PFLP (パレスチナ解放人民戦線)
音声: 戸浦六宏 /中島葵 / 重信房子/ 岩淵進 / 松田政男 / 足立正生
無名にて死なば星らにまぎれんか
輝く空の生贄として (寺山修司)
オレたちは想像することができる。
オレたちはどこへでも行くことができる。
そしてオレたちは、奴らに向けてブッぱなすことができる。
オリオンの三ツ星よ、八・一六のまつりの空に輝け!
オリオンの三ツ星よ、いつの日か、
奴らに向けてブッぱなされる銃声が、
オマエたちを追悼するのを聞くことがあるだろう。
(72年8月京都 テルアビブ2兵士追悼集会 集会基調 より)
関連記事 ; 重信房子 インタビュー 1973
日本赤軍関連video(YouTube Playlist)
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東アジア反日武装戦線
「終曲」 (斎藤和 作)
凍てた花はすぐ枯れる。
でも新しい芽は割れ
水は音を立てて流れ始める。
君と一緒なら
でもわたしには
戦が待っている。
「...人間というものは本当に不思議なもので、ニヒリズムを通過してこそ真の理想主義にいきつく。
あの人たちの世界は狭いが、結局僕も同じともいえるのですね。
僕は人を殺すために爆弾をつくっているわけじゃなくて、人の胸の中で何ものかを
爆発させようと思って一生懸命考えている。似たことをやっているのですね。
やはり、ある種の精神を圧殺し、ある種の精神を解放しようと思っているわけです。
そして、あの人たちは間接的にでも人を殺したら、自分をも殺さねければならないと
思っていたわけですね。これはいいことだと思いますよ。
革命家は、毛沢東でもレーニンでも、革命が終わった日に、皆自殺すべきだ。
権力者となって生き残ったら、革命家としては終わり、というのが僕の持論です。
爆弾闘争を行った青年たちには大衆の支持がなかった、という批判があるが、
多くの人の支持を得るということは、もともとむずかしいですね。
結果においての支持であって、支持は理論以外で求められない。
しかし、理論というものはある運動の形成を経ないとできない。
何といっても、いろんなことをやっているうちに中の数人が考えて理屈づけるということで、
初めに理屈があったわけじゃないんですよ」
(埴谷雄高 「週刊現代」昭和50年6月12日号)
埴谷雄高独白 死霊の世界 ( 「政治をめぐる断想 (1951) 」 から 「永久革命者の悲哀 (1956) 」)
さらば日本 滅び行け日本よ
被征服原住民の血の海の中に
被征服原住民の肉と骨とで建国された
征夷天皇日本よ
俺は友を募りて旅に出る
お前を撃ち滅ぼす為の
お前を地上から永久に消し去るための
世界革命の長途へと
手には怒りの武器を持ち
心は詞花で武装して
我等は勝利の旅に出る
いざ集え 輩よ
我等が反日の旅立ちで
(REAL & CONTEMPORAINE 又は A-MUSIK - 「反日ラップ」)
壊され歪められた この体のジュースを
ここで枯らしてやるのさ 生き返るためにと
次に続く赤子たちには 新しい夢 くれてやるのさ
俺のために お前のために おのれのためにと
勝ち誇ったやつらの 息の根を止めるために
燃え立ちあがる炎は 黒煙を導き
くすんだ光に照らし出される バルーンで迎え撃つ
銀色の鳥は干からびた明日を目指して
歪みきった地の果てへと 高く鳴いて飛び立つ
勝ち誇ったやつらを 食いちぎるためにと
東の大地に埋もれた たくさんの骨は
モンスーンに乗ってやってくるぜ 牙を向いた顔で
俺の体によみがえれ 黄色の砂と交えて
誰のために 誰のためにと 言うこともなく
(REAL - 「大地の牙」)
東アジア反日武装戦線は、1960年代後半の黒ヘルグループに源流があり、日本国家をアジア侵略の元凶と見なし、解体することを目標とした。運動は1970年代半ばに集中し、連続企業爆破事件を引き起こした。中核派・革労協・革マル派が、党派闘争で手一杯の時期に台頭した。
思想や主張の内容から、監視対象とされた一名に対する捜査により、1975年5月19日、芋づる式に逮捕され壊滅する事となった。
一連の事件は、“狼”、“大地の牙”、“さそり”の三班に分かれて起こしている。
1971年(昭和46年)
大道寺将司(まさし/法政大中退、会社員)が片岡利明(法政大中退、会社員)、大道寺あや子(大道寺将司の妻/星薬科大卒、会社員)と東アジア反日武装戦線<狼>グループの前身部隊を結成した。
12月12日、大道寺らによって、熱海にある「興亜観音像」と「殉国七士の碑」を同時に爆破。
1972年(昭和47年)
4月6日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、朝鮮に対する日本の侵略支配を正当化するものであるとして、鶴見の曹洞宗大総持寺常照殿(納骨堂)を爆破。
10月23日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、アイヌモシリ侵略思想とアイヌ文化遺産収奪の拠点としての役割を果たしてきた北海道大学文学部の北方資料館と、日帝 ― 道庁 ― 日本人植民者によるアイヌモシリ征服の過去を形容する「風雪の群像」を同時に爆破。
1974年(昭和49年)
3月に大道寺将司、片岡利明、佐々木規夫らによって“狼”部隊が結成され、腹腹時計(兵士読本VOL1)を出版する。
『腹腹時計』 (はらはらとけい)
1974年3月に発行され、爆弾の製造方法とその仕掛け方やゲリラ戦の方法までを詳細に解説した教程本。「兵士読本VOL1」とも呼ばれる。
奥付けは、<兵士読本VOL.1 一九七四年三月一日発行 頒価一〇〇円 編集・東アジア反日武装戦線〝狼〟兵士読本編纂委員会 発行・東アジア反日武装戦線〝狼〟情報部情宣局 東アジア反日武装戦線〝狼〟情報部印刷局>となっている。
8月14日、東アジア反日武装戦線<狼>グループは、この日の午前10時58分~午前11時2分に、東京と埼玉の間にある荒川鉄橋を通過する「御召」列車(天皇は毎年7月末ごろ、那須御用邸にいき、8月14日午前に特別列車で帰京して、翌15日の戦没者追悼式に出席する)を爆破する計画(天皇暗殺攻撃=虹作戦)を立てていたが中止した。
8月15日、韓国において、時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生していた(文世光事件)。この事件の犯人文世光は、黒ヘルと多少の繋がりがあるとされるプロレタリア軍団傘下の高校生組織「暴力革命高校生戦線」出身であった。
8月30日、午後0時45分、東京・丸の内にある三菱重工業ビル(現・文部科学省ビル)1階ホールが、正面玄関前に“狼”が仕掛けた時限爆弾によって爆破された(三菱重工ビル爆破事件)。サラリーマンら8人が死去、380人が負傷。
三菱重工爆破事件ドキュメンタリー
10月14日、午後1時過ぎ、<大地の牙>グループの斎藤和(都立大中退、ウエイター)、浴田(えきた)由紀子(北里大卒、臨床検査技師)らが、東京都港区西新橋の三井物産本社を爆破。
11月25日、東アジア反日武装戦線<狼>グループが、東京都日野市の帝人中央研究所を爆破。
12月10日、東アジア反日武装戦線<大地の牙>グループが、東京都中央区銀座2丁目の大成建設本社を爆破。
12月23日、東アジア反日武装戦線<さそり>グループの黒川芳正(都立大中退、会社員)、宇賀神寿一(うがじんしんいち/明治学院大生)、荒井まり子(法政大中退、東北大付属医療技術短大生)らも合流し、東京都江東区の鹿島建設工場敷地内を爆破。
12月23日、“さそり”によって鹿島建設が爆破。
1975年(昭和50年)
2月28日、東アジア反日武装戦線の3つのグループが、東京都港区北青山の間(はざま)組本社ビルと埼玉県与野市(現・さいたま市)の間組大宮工場を同時に爆破。
4月19日、東アジア反日武装戦線が、銀座7丁目の韓国産業経済研究所、尼崎市のオリエンタルメタル社を爆破。
4月28日、東アジア反日武装戦線が、千葉県市川市の間組作業所を爆破。
5月4日、東アジア反日武装戦線が、間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破。
5月19日、東アジア反日武装戦線の大道寺将司(当時26歳)、佐々木規夫(当時26歳)、大道寺あや子(当時26歳)、片岡利明(当時26歳)、斎藤和(当時27歳)、浴田由紀子(当時24歳)、黒川芳正(当時27歳)、荒井まり子(当時24歳)の8人が韓国産業経済研究所爆破容疑で逮捕された。メンバーは逮捕された場合は青酸カリで自決するように決意していたが、逮捕時に青酸カプセルを飲んで自決し得たのは斎藤和のみであった。
東アジア反日武装戦線 連続企業爆破事件 - 1974&1975
5月23日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一(当時22歳)、桐島聡(当時21歳/明治学院大生)が韓国産業経済研究所爆破容疑で全国指名手配された。
5月25日、東アジア反日武装戦線が、東京の立川警察署北口交番など9ヶ所の交番を爆破。
5月28日、荒井まり子の姉のなほ子が走行中の列車から飛び降り自殺した。
6月13日、「七士の碑」など4件の共犯者とされた藤原義美(元法大生)も自殺した。
7月19日、東アジア反日武装戦線が、北海道警察本部警備課内を爆破。
[ クアラルンプール事件 ]
8月4日、日本赤軍の奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。日本で勾留中の京浜安保共闘の坂口弘と赤軍派の松浦順一は出国を拒否した。
日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975
これ以降も、東アジア反日武装戦線によって切り開かれた爆弾闘争は、同戦線を名乗る後続部隊からさらに、「世界赤軍日本人部隊やみのつちぐも」「世界革命戦線大地の豚」「世界革命反日戦線・タスマニア1876」といった新グループによる神社や大学、企業などへの攻撃と多角化していく。また、「東アジア反日武装戦線KF部隊」「手・足としっぽの会」「反帝反日通信編集委員会」の名で、東アジア反日武装戦線の教本であった『腹腹時計』などの続編や爆弾闘争支援文書も刊行され、爆弾志向の潜在的広がりをみせる。
1976年(昭和51年)
1月6日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、平安神宮を放火。
3月2日、東アジア反日武装戦線が、札幌市の北海道庁を爆破。同庁舎1階ロビーに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、2人が死亡、95人が重軽傷を負った。この日は、1899年(明治32年)に制定された「北海道旧土人保護法」の公布日に当たっていた。爆発後、市営地下鉄大通り駅のコインロッカーから、東アジア反日武装戦線の署名入り犯行声明文が見つかった。それには、<道庁を中心に群がるアイヌモシリの占領者どもは、第一級の帝国主義者である>と書かれていた。
公安警察は、これらの爆弾犯人として加藤三郎をマークしていた。加藤は岐阜市内で職務質問を受けた際、爆弾材料の除草剤などを残して逃走した。加藤の行方を突き止めるために、交友関係を洗っているうちに、大森勝久が浮かんできた。大森は道庁事件現場で目撃されている不審な人物に肉体的特徴が似ていた。捜査本部は札幌市の間借り先を家宅捜査し、爆弾製造に使う工具を発見した。
8月10日、大森勝久は爆発物取締法違反容疑の別件で逮捕された。
9月1日、さらに、大森は道庁事件で再逮捕され、道警事件で再々逮捕された。だが、大森は完全黙秘を続けた。
9月10日、警察庁は大森の共犯者として、加藤三郎を全国に指名手配した。
1977年(昭和52年)
1月1日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、京都梨木神社を爆破。
2月21日、世界革命戦線大地の豚が、大阪東急観光を爆破。
5月2日、世界革命戦線大地の豚が、東大法文1号館を爆破。
6月30日、世界革命反日戦線・タスマニア1876が、三井アルミ社長宅を爆破。
[ ダッカ事件 ]
9月28日、日本赤軍の丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、坂東国男、西川純と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。
その9人とは、日本で収監中の日本赤軍の奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派の城崎(きのさき)勉と植垣康博、京都地方公安調査局爆破事件の大村寿雄、当時の皇太子夫妻に火炎ビンを投げつけた(ひめゆりの塔事件)知念功、無期懲役刑中の強盗殺人犯の泉水(せんすい)博、懲役10年の判決を受け控訴中の殺人犯の仁平(にへい)映である。泉水、仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。
10月1日、この9人のうち、植垣、大村、知念の3人は、立場が違うなどの理由で出国を拒否したが、奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人は釈放に応じた。6人を乗せた日航機は羽田を出発し、午後、ダッカ空港に到着した。釈放犯6人、現金600万ドル(当時で約16億円)と交換に人質が解放された。その後、クウェート、シリアを経て、6日間の飛行ののち、アルジェリアのダニエル・ベイダ空港で人質全員を解放した。
当時の福田赳夫首相は「人命は地球よりも重い」と述べ、犯人の要求をのんだ。この「弱腰対応」は世界各国から批判を浴びた。
尚、浴田は1995年3月24日に日本赤軍の一員としてルーマニアで潜伏活動をしていたところ身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去となり日本へ向かう飛行機内で逮捕、裁判で懲役20年の判決を受け、現在栃木刑務所にて服役中。2017年3月22日出獄予定。
日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977
ひめゆりの塔事件 - 1975
10月27日、部族戦線が、東京都渋谷区の神社本庁を爆破。この時点で部族戦線のリーダーが加藤三郎ということが判明した。
11月2日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、東本願寺大師堂を爆破。
1978年(昭和53年)
10月28日、東アジア反日武装戦線が、間組第2ハザマビル工事現場を爆破。
1979年(昭和54年)
11月12日、東京地裁は大道寺将司、片岡利明に死刑、黒川芳正に無期懲役、荒井まり子に懲役8年の判決を言い渡した。弁護側は控訴した。
1982年(昭和57年)
7月12日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一が逮捕された。
10月29日、東京高裁は東京地裁での大道寺将司、片岡利明、黒川芳正、荒井まり子への判決を支持して控訴を棄却した。
1983年(昭和58年)
3月29日、札幌地裁は大森勝久に対し死刑を言い渡した。
5月18日、部族戦線の加藤三郎が逮捕された。
1987年(昭和62年)
3月24日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大道寺将司、片岡利明に対し上告を棄却した。これで死刑が確定した。戦後の政治犯として、初の死刑判決であった。現在、「三菱重工本社ビル爆破には殺意がなかった」として、第2次再審請求中である。黒川芳正は無期懲役、荒井まり子は懲役8年と1、2審の判決通りであった。荒井は未決勾留通算により、同年11月、出所した。
片岡は養家の姓を継ぎ、「益永」となった。
1988年(昭和63年)
1月21日、札幌高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し札幌地裁での死刑判決を支持して控訴を棄却した。
4月、東京高裁は部族戦線の加藤三郎に対し懲役18年の判決を言い渡した。
1989年(平成元年)
7月14日、最高裁は加藤三郎に対し上告を棄却した。これで懲役18年が確定した。
1990年(平成2年)
2月27日、最高裁は東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一に懲役18年の判決を言い渡した。
1994年(平成6年)
7月15日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し1、2審の死刑判決を支持して上告を棄却した。だが、大森は冤罪を訴え続けている。
1995年(平成7年)
3月24日、日系ペルー人を装って、ルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が逮捕された。
1998年(平成10年)
2月12日、斉藤和、佐々木規夫らに思想的影響を与えた、『朝鮮人強制連行の記録』で知られる朴慶植が「交通事故」にて逝去。奇しくも、2月21日に金大中が大統領に就任する10日前の出来事であった。
2002年(平成14年)
7月4日、東京地裁は浴田由紀子に対して「爆弾による攻撃という過激な手段を用いて、社会変革を目指した短絡的、独善的な犯行」と述べ、懲役20年(求刑・無期懲役)の判決を言い渡した。判決は「爆弾の威力は強力で、周囲の者を死亡させる可能性を認識していた」と、浴田に未必の殺意があったと認定。一方で、「長い歳月を経て、被告は社会変革のために人に危害を加えるのは誤りだったと自覚している」とし、無期懲役は重過ぎると判断した。また、20年の刑期から、5年半に相当する未決拘置日数(2000日)を差し引くことになった。
7月30日、北海道庁爆破事件で、爆発物等取締罰則違反、殺人罪などで死刑が確定している東アジア反日武装戦線の大森勝久は、札幌地裁に再審を請求した。弁護団によると、爆弾についての北海道警の鑑定結果を否定する新証拠を提出したという。道警は大森の自宅から、爆弾の主原料となる塩素酸系除草剤を検出したとの鑑定結果を提出した。しかし、検出には約10時間の検査が必要で、鑑定結果は虚偽であると指摘している。
2004年(平成16年)
5月24日、浴田に対する1審での懲役20年を支持した2審での判決を不服として被告側が上告した。
8月5日、浴田が上告を取り下げ、懲役20年が確定した。
2006年(平成18年)
11月22日、東京地裁(栃木力裁判長)は大道寺将司と益永利明の第2次再審請求について請求を棄却した。弁護側は三菱重工ビル爆破に使用された爆弾の新たな鑑定に基づき、「爆弾の威力がこれほど強いとは認識していなかった。殺意はなかった」と主張したが、決定は「威力を正確に認識している必要はなく、再審を決定する明白な証拠にあたらない」として退けた(第1次再審請求は1991年、最高裁で特別抗告が棄却された)。即時抗告。
2007年(平成19年)
3月19日、札幌地裁(半田靖史裁判長)は大森勝久の再審請求審で請求を棄却した。半田裁判長は、えん罪を主張した弁護側の新証拠について「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じるとは到底認められない」と判断した。弁護側は即時抗告する方針。
6月5日、東京高裁は大道寺将司、益永利明の第2次再審請求で、「再審を開始する理由はない」として、2人の即時抗告を棄却した。
現在、日本赤軍メンバーの坂東国男、佐々木規夫、松田久、奥平純三、大道寺あや子、仁平映の6人と東アジア反日武装戦線の桐島聡が逃亡中である。

関連書籍 ; 大原デジタルライブラリー 社会・労働関係 和書データベースより
No. 1
標題:新左翼運動獄中書簡集/副標題:
著者:信濃太郎編著/出版者:新泉社/出版月:1994.3/頁数:195p
叢書:/請求記号:308-Sh69/番号:1025187
No. 2
標題:あの狼煙はいま/副標題:
著者:東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議編/出版者:インパクト出版会/出版月:1996.9/頁数:251p
叢書:/請求記号:308-H55/番号:1030207
No. 3
標題:狼煙を見よ/副標題:戦後ニッポンを読む 東アジア反日武装戦線“狼”部隊
著者:松下竜一著/出版者:読売新聞社/出版月:1997.10/頁数:292p
叢書:/請求記号:308-Ma88/番号:1032843
No. 4
標題:テロ 新装版/副標題:東アジア反日武装戦線と赤報隊
著者:鈴木邦男著/出版者:彩流社/出版月:1999.9/頁数:237p
叢書:/請求記号:313-Su96/番号:1035784
No. 5
標題:友へ/副標題:大道寺将司句集
著者:大道寺将司著/出版者:海曜社/出版月:2001.5/頁数:239p
叢書:/請求記号:720-D15/番号:1039630
No. 6
標題:子ねこチビンケと地しばりの花/副標題:未決囚十一年の青春
著者:荒井まり子著/出版者:径書房/出版月:1986.10/頁数:315p
叢書:/請求記号:289-A62/番号:1040150
No. 7
標題:明けの星を見上げて/副標題:大道寺将司獄中書簡集
著者:大道寺将司著/出版者:れんが書房新社/出版月:1984.2/頁数:275p
叢書:/請求記号:308-D15/番号:1040159
No. 8
標題:反日思想を考える/副標題:死刑と天皇制
著者:東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議編/出版者:軌跡社(発売:社会評論社)/出版月:1991.1/頁数:308p
叢書:/請求記号:308-H55/番号:1040160
No. 9
標題:爆弾世代の証言/副標題:東京拘置所・死刑囚監房から
著者:片岡利明著/出版者:三一書房/出版月:1985.5/頁数:173p
叢書:/請求記号:308-Ka83/番号:1040161
参照元LINK ;
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ (*注 ; 2008年8月4日確認時点ではリンク消失)
日本赤軍と東アジア反日武装戦線
東アジア反日武装戦線関連項目(Wikipedia)
東アジア反日武装戦線 関連ビデオ(YouTube Playlist)
でもわたしには戦が待っている―斎藤和(東アジア反日武装戦線大地の牙)の軌跡 (単行本)
A-MUSIK HomePage
A-MUSIK「反日ラップ」について
リアル<燃え尽きた日章旗の彼方に>
1989.02.02@下北沢 屋根裏/リアル・ワンマンライブ
映画「腹腹時計」 と 渡辺文樹 について
コンサート「反日アンデパンダン」について(83年秋、和光大学)
東アジア反日武装戦線“さそり”宇賀神寿一(ナックルズMOBILE NONFIXアーカイブ)
関連記事 ; 腹腹時計
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重信房子 インタビュー 1973
無名にて死なば星らにまぎれんか
輝く空の生贄として (寺山修司)
重信房子 ( Fusako Shigenobu ) は、日本赤軍 ( Japanese Red Army )の最高指導者。1971年2月、共産主義者同盟赤軍派の国際根拠地論に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚。1972年5月30日、奥平剛士は、民間人ら100人以上を殺傷したテルアビブ空港乱射事件 ( Lod Airport massacre )で死亡。
「日本赤軍と東アジア反日武装戦線」(無限回廊) 、
四方田犬彦「パレスチナ・ナウ」より;
1971年2月にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』で司会を務めていた山口淑子は、クルーを組織してレバノン、イスラエル、エジプトを取材し、難民キャンプの実態を「中東レポート」として日本のお茶の間に紹介した。彼女はその後、足掛け三年にわたってパレスチナ問題のTV報道を続けた。三年目の1973年ヨーロッパで、重信房子のインタビュー取材に成功、同年の8月14日に放送され、テレビ大賞優秀賞を受けた。
参考;本インタビューに関して、橋本敦(日本共産党)による質疑
於・ 第084回国会 法務委員会 第13号
(昭和五十三年六月一日(木曜日))
参考; 日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975
参考; 日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977
映画「実録・連合赤軍」と岡本公三
参照Link:
帰国者の裁判を考える会
重信房子さんを支える会
関連記事 ; 赤軍 - PFLP 世界戦争宣言
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回想 全共闘
連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する
参考: 全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968
参考: 全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969
参照Link;
1968年全共闘だった時代
全共闘48万が立ち向かったもの
日大全共斗博物館
日大闘争by日大全共闘
東京大学安田講堂での記録写真
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(1)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(2)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(3)
山本義隆(Wikipedia)
山本義隆 著作(Amazon)
今井澄(Wikipedia)
全学共闘会議(Wikipedia)
東大紛争(Wikipedia)
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Tokyo in 1967 - the combustion point
Japanese Student Movement in the Sixties ;
from Zengakuren to Zenkyoto ( The Student Left in Japan )
from the Rolling Stone mag article ; " Tokyo in 1967 "
The image of students in Tokyo getting high on imported birdseed doesn't jump to the fore.
"The simplest way for people to get marijuana was in pet stores," recalls Koji Takazawa ( 高沢皓司 ), a leader of Zenkyoto, an alliance of Japanese student movements in the 60s. "There were hemp seeds in the birdseed, so people bought the birdseed and grew their own marijuana."
Japanese Psychedelic Hippie ( フーテン族 ) in Shinjuku 1967
In the West, little is known about Japanese youth movements of the 1960s, but the Zenkyoto, Zengakuren, and other movements were hugely popular in Japan, protesting Japanese involvement in the Vietnam War, spurring interest in Western music and art, and calling a generation to action, as parallel movement did around the world.The student movement began to mobilize in 1960, when the Japan-US Joint Security Treaty was signed and thousands of University students took to the streets in protest.
Protest against the Japan-US Security Treaty in 1960
In the following years, protests grew louder and angrier, as the military campaigns escalated. "1967 was the year the student campaign really escalated," says Takazawa. "A student was killed in a conflict with riot police and as a result, there was a huge outcry and a big wave of protest." From 1967 to 1970, students at 167 Japanese universities went on strike as part of the Zenkyoto movement.

Protest against PM Eisaku Sato at Haneda Airport in 1967

Zenkyoto Movement in 1968
Zenkyoto Movement in 1969


Yukio Mishima and Zenkyoto @ University of Tokyo in 1969
"Some years later, nearly all the popular musicians in Japan had come out of that cultural stream," says Takazawa, who says members of the 60s youth movements used the Japanese cartooning tradition, Manga, in their posters and art, transforming it into the cultural force it has become.
Les Rallizes Denudes ( 裸のラリーズ )
In 1970, Les Rallizes Denudes member Wakabayashi was involved to some degree in the hijacking of a Boeing 727 orchestrated by the Japanese Red Army. Singer Takashi Mizutani was allegedly offered a role in the hijacking but turned it down.
Red Army Fraction hijacking of a Boeing 727 named "Yodo" on 31th Mar.1970
Les Rallizes Denudes - " The Night of Assassin "
Shinji Nagashima ( 永島慎二 ) - notable manga artist during zenkyoto era
some more videos of Japanese Student Movement on YouTube
(click the logo to load the playlist)
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Years of Lead ( 鉛の時代 )

1969年といえば、前年のフランスに続いてイタリアでもアントニオ・ネグリ(Antonio Negri)の唱導するアウトノミア運動等の左翼運動が高揚し、「熱い秋」を迎えた年だった。その12月12日、ミラノのフォンタナ広場にある農業銀行で 時限爆弾が爆発し、死者17人、負傷者80数名の大惨事を引き起こした。この日ローマ他四か所でも爆発があり、事件は「同時多発テロ」だった。これがイタリアで初めての「無差別テロ」で、以後イタリアでは左右の武装組織によるテロが相次ぎ、「鉛の時代」(years of lead , it: anni di piombo)と呼ばれる重苦しい時代に入る。
この時代は1978年5月9日のモロ(Aldo Moro)元首相誘拐殺害事件で頂点を迎える。
1978年3月16日、キリスト教民主党総裁で元首相のアルド・モロがローマ北西のコルチナ・ダンペッツォ通りの自宅を護衛車に後を守られて車で出た直後、十字路で横から外交官ナンバーの車が行く手を塞ぎ、モロ元首相の車はこの車と衝突、護衛の車もモロ元首相の車に玉突き衝突した。そこへ別の車から降りた空軍の制服を着た4人の男が銃を乱射、護衛官5人を殺害し、モロ元首相をさらに別な車に押し込んで誘拐した。このとき事件を起こした「赤い旅団」(Red Brigades , Brigate Rosse ;BR))は、何人かの政治犯釈放を要求したが政府はこれに応じず、結局モロ議員は五十数日後に殺害された。そしてこの事件直後、議会は「テロリストとそれを保護する者」を取り締まる「反テロ特措法」を成立させた。正式には「民主的秩序維持法」というこの法律は、危険とみなされた者の予防拘束や、監視や盗聴を合法化し、密告を奨励するもので、この法律そのものがまたイタリア社会に暗い影を落すことになった。
1980年頃まで続いたイタリアの爆弾テロを操っていたのは同国の情報機関とフリーメイソン系秘密結社P-2(Propaganda Due)だとされているが、1990年代に入ると、その背後に NATO/CIAの秘密部隊(False flag operations)が存在していると信じられるようになった。グラディオ(Operation Gladio)である。
敵対者を直接攻撃するのではなく、左翼を装ってテロを起こし、市民の間に恐怖と不安を煽って左翼を危険視させ、社会的な緊張を高めることで、政府が安全保障政策(統制政策)を前面に出しやすくする。国家非常事態を宣言することもできるだろう。それによって左翼運動を圧殺しようというのが「緊張の戦略」(The strategy of tension)だと言うのである。
フォンタナ事件は、イタリア社会に緊張を作り出すために「仕組まれた同時多発テロ」(State-sponsored terrorism)のひとつで、国家(軍や内務省の一部)はこの動きを事前に察知しながら防止の手をうたなかったということだ。事件後、左翼に対する取り締まりは強化され、追い詰められた左翼の過激派はテロ活動で対抗するようになる。
ALBUM DI STATO
9 maggio 1978
BBC Timewatch: Operation Gladio
This 3 part BBC documentary has gained legendary status since it has been cited by virtually every researcher seriously looking into False Flag terror, the "Strategy of Tension", etc.
Part 1: (The Ringmasters)
Part 2: (The Puppeteers)
Part 3: (The Foot Soldiers)
NATO's Secret Army: Operation Gladio and Terrorism in Western Europe (Contemporary Security Studies)
by GANSER DANIELE (Author)

映画 : 『鉛の時代』 (Marianne and Juliane ;
Die bleierne Zeit)
(監督 : マルガレーテ・フォン・トロッタ ; Margarethe von Trotta)
ANNI DI PIOMBO: la presa di coscienza della Shoah
映画 : 『夜よ、こんにちは』 (Buongiorno, notte)
(監督 : マルコ・ベロッキオ ; Marco Bellocchio)
Buongiorno Notte Trailer
光の帝国/迷宮の革命 鏡のなかのイタリア - クリティーク叢書 10
●著 ; 伊藤公雄
迷宮のなかの「革命」
(1)「鉛の時代」を越えて 「赤い旅団」という「物語」
「鉛の時代」/政治的コミュニケーションとしてのテロリズム/カトリック共産主義/「緊張の戦略」/血の闘争の開始/「運動」の混迷のなかで/「モロ事件」/「敗北」の総括――テロリズムと「運動」
(2)迷宮のなかの「革命」 U・エーコ(Umberto Eco) ; 『薔薇の名前』(The Name of the Rose)とモロ事件
事件の開始/解釈の迷宮/モロはモロではない/ジェルンディオ現在/『薔薇の名前』とモロ事件/悪魔払いのための作品/おわりに――二つの「言葉」の間で
モロ事件―テロと国家 (1979年)
レオナルド・シャーシャ 著/千種堅 訳
「人民監獄」から送られてくるモロの悲痛な手紙。「赤い旅団」の相次ぐコミュニケ、
その時、政府与党の首脳は、なぜ沈黙を守ったのか?
党首モロは死んだ。極左グループ「赤い旅団」の大胆な誘拐作戦から、悲惨な死、
葬儀にいたる55日間の全過程を捉える迫真のドキュメント。
誘拐から葬儀まで(事件日誌) 赤い旅団の監獄とは 筋書きは書かれていた?
ゲームの始まり 党首アルド・モロの肖像 日増しに圧力が加わって 旅団の策略
諸君、迅速に解決策を探して下さい イタリア政府は弱者に強く強者に弱い
キリスト教民主党一家の劇的な対立 人民裁判は死刑を持って終わる
モロは湖底に沈んだ(偽りの通告) 親愛なる友よ、特赦のお願いをして下さい
同士13人との交換を(コミュニケ8号) 党が望むなら私は死にます 家族の訴え
闘争の終結は近い モロ訊問の成果は地下運動に提供される モロ議員の遺体
赤い旅団の本質はマフィアに似ている
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源流としての新左翼
watch the vid(wmv)
「...新左翼運動というのは、1972年、浅間山荘事件という、
大変ショッキングな内ゲバの果てに殺し合ったという事件によって
運動自体は衰退して行くわけです。
が、新左翼の一つの遺産が、社会風潮、思想として、
新自由主義の考え方と共鳴して、
管理教育に対する反対運動、女性の平等、司法改革、
裁判の改革へ、流れこんでいるのではないかと思います。」
視点・論点
浅間山荘事件
管理教育
ウーマンリブ
「...ブントには、後の新左翼運動が抱え込むことになる暗さがない。
運動の高揚期にみられる明るさであったのかもしれない。
ブントのリーダーたちは本質的に楽天的で、開放的であり、
それが組織の性格に明瞭に反映していた。
それはある種のいい加減さが支配していたということでもある」
(『新左翼の遺産 ニューレフトからポストモダンへ』大嶽 秀夫)
Amazon.co.jp
共産主義者同盟(ブント)
「階級闘争の枠超える批判意識 - 本書に言う「ポストモダン」とは、
このような批判意識のことであり、それ自体は周知の概念だが、
大嶽氏の斬新さは階級闘争という枠を超える
この新しい批判意識が、日本で、どのように形成されたのかを
丁寧に洗い出そうとしている点である。
「68年」が焦点となる本書の続編が楽しみだ。」
(評者:市野川容孝氏)
東大出版会
「68年」
1/15-1/23:佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
2/20-4/15:王子野戦病院開設阻止闘争
前年11/3-5/7:三里塚新空港粉砕闘争
5/21:フランス パリ 五月革命
10/21:国際反戦デー 新宿騒乱
当時の風俗(フーテン族、アングラ、サイケ、ゴーゴー、etc...)
「ポストモダン」
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赤軍派 連合赤軍 日本赤軍 東アジア反日武装戦線
赤軍派 よど号 ハイジャック事件 - 1970
連合赤軍 浅間山荘事件 - 1972
重信房子独占インタビュー 1973
東アジア反日武装戦線 連続企業爆破事件 - 1974&1975
三菱重工爆破事件ドキュメンタリー
日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975
日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977
参照Link:
1969-1972 連合赤軍と「二十歳の原点」
日本赤軍と東アジア反日武装戦線(無限回廊)
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ
帰国者の裁判を考える会
重信房子さんを支える会
重信房子(wikipedia)
共産主義者同盟赤軍派(wikipedia)
連合赤軍(wikipedia)
日本赤軍(wikipedia)
東アジア反日武装戦線(wikipedia)
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早稲田という病 - 3
InternetArchiveより再録
革共同 革マル派
2002年1月1日
「悪食悪鬼不逞之徒退散元年絵」
2004年1月1日
「新春オムニバス巨編―鉤十字に明日はない」

2005年1月1日
「カールの動く城 MARX'S MOVING CASTLE」

2009年1月1日
「戦争乃家 最後の蛮惨之画漫・破綻・落壁大瓦落・綺譚 李満亭阿呆久斎」
正式名称・・・日本革命的共産主義者同盟・革命的マルクス主義派
同盟員人数・・・推定約1900名
学生組織・・・日本マルクス主義学生同盟革マル派(マル学同革マル派)
代表者・・・植田 琢磨(全国委員会議長)
革マル派の本部・支部所在地
本部・・・「解放社本社」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-3解放社ビル , 03-3207-1261
支部
* 「こぶし書房」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-15 , 03-3207-0928
* 「学創社本社」東京都新宿区早稲田鶴巻町525-9 . 03-3232-9005 (FAX 03-3232-9035)
* 「解放社北海道支社」札幌市北区北37条西7-4-10創文ビル , 011-717-2890
* 「解放社東海支社」名古屋市中区千代田3-18-30 , 052-332-3327
* 「解放社関西支社」大阪市東淀川区豊新5-6-5 , 06-320-3356
* 「学創社関西支社」大阪市東淀川区豊新5-5-12 303号室 高橋方
* 「解放社九州支社」福岡市南区野間3-9-12 , 092-561-7400
* 「解放社沖縄支社」宜野湾市新城2-37-14沖縄合同企画ビル内 , 098-893-2937
革マル派の組織図
<特徴・・・縦割り型の組織構成>
全国委員会
政治組織局(POB)
|
-----------
| |
中央労働者 中央学生
組織委員会 組織委員会
(WOB) (SOB)
| |
産別の各委員会 各学生組織
革マル派の労働者組織
革マルは、郵政省の「全逓」、NTTの「全電通」などなど、連合系の主要労働組合において無視できない規模のフラクションを保持している。なかでも「JR総連」(柴田光治委員長:組合員7万人)は、新左翼党派が実質的に支配している国内唯一の巨大労組と言ってよい。
革マル派副議長・中央労働者組織委員長の労働運動家・松崎明は、”鬼の動労”と異名を取る「国鉄動力車労組(動労)」のリーダーとして、1970年代には国鉄当局の生産性向上運動に反対する、いわゆるマル生反対闘争で戦闘的な実力闘争を展開した。
国電乗客暴動 - 1973
が、1987年の国鉄改革に際しては、一転して労使共同宣言を結び、分割・民営化への協力姿勢を明らかにした。こうした流れのなかで、革マル系(政研会)・非革マル社会党系(同志会)が勢力的に概ね半々ずつを占めていた「動労」と、民社党系の「鉄労」は、民営化協力路線の下に合併し、「JR総連」を結成したのである。「JR総連」は、最盛期にはJR労働者20万人のうち16万人を組織するまでになった。しかしその後、JR西・九州・東海・四国各労組の旧鉄労系の部分は相次いで「JR総連」を脱退し、92年5月、新たに「JR連合」を結成。旧「動労」の社会党系の部分の多くも「JR連合」に流れた結果、「JR総連」は、旧「動労」革マル系の拠点だった東京・高崎・盛岡などの地方本部を含んでいる「JR東労組」(5万6千人)を除いては影響力を急速に弱めているが、しかしこの結果、革マル支持基盤としての地歩は、かえって着実に純化しつつあるとも言える。
97年の神戸小学生連続殺傷事件においては、JR東日本各駅のキオスクが、事件の容疑者A少年の顔写真を掲載した写真週刊誌「フォーカス」に対して真っ先に販売停止処分を決定した結果、他のJR各社のキオスクもこれに倣うという事態が起きた。これなどは、「JR総連JR東労組」(=革マル)の側の政治的意向が、「JR東日本」経営側の方針に直接反映された典型的な事例である。
革マル派全学連
* 委員長・・・石田 貴裕(早稲田大学・第一文学部)
* 副委員長・・・猪井 謙二(早稲田大学・第二文学部)
* 副委員長・・・種井 一平(金沢大学・教養教育)
* 書記長・・・田代 智之(名古屋大学・法学部)
革マル派の武装組織
学生・労働者に対する革命家としての「教育」において、革マル派が何よりもまず重視するのは、「個人の自己変革を目的」とした、「理論学習」である。デモの戦法やテロ襲撃術などの「軍事訓練」に類する教育のレベルは、中核派や青解派などと比べると、遥かに低い。革マル派の武装部門を担う「全学連特別行動隊」は、構成人数100-200名程度の部隊と見られる。あくまでこれは学生のみによって構成された単なる「ゲバ棒武装」部隊にしか過ぎない。革マル派は、「労働者の武装化」についてはいまだ実際には何ら手をつけていない。
革マル派の諜報活動
偽造警察手帳や偽造公安調査官手帳を使っての「聞き込み」活動、自分たちで製作した合鍵を用いての家宅侵入行為などなど、情報収集活動には非常に積極的なようである。91年のJR東海葛西副社長(当時)の女性スキャンダル暴露であるとか、最近の例でいえば95年の国労中央による亀井静香運輸大臣(当時)らへの1億9000万円献金スキャンダル暴露、昨年以来の神戸小学生殺人事件に関する容疑者A少年の「検事調書」や「捜査報告書」などの情報源も、こうした日々の違法な活動をつうじて入手しているのであろう。
革マル派は、敵対党派とその関係者に対する盗聴を広範囲に行っていることがすでに明らかとなっており、またNHKテレビの電波ジャックを成功させたこともあるなど、無線・通信技術の「活用」能力については新左翼中第1位と言ってよいだろう。96年春以降続発したJRの列車無線妨害事件についても、革マル派の犯行ではないかとの説が、中核派などによって唱えつづけられている。
情報化部門においては、革マル派は同盟員に郵政省職員・NTT職員を多数抱えており、またソフトウェア会社を経営したりもしている。コンピュータ・ネットワークにおける革マル派の潜在的「戦闘能力」も、実は極めて高いと言えよう。
機関誌紙活動
* 機関紙・・・週刊「解放」(ブランケット版8ページ) 推定発行部数10000部
* 機関誌・・・隔月刊「共産主義者」
革マル派の機関誌紙活動における大きな特色は、他の新旧左翼勢力を批判する論文・記事の掲載が異様に多いことであり、平均して「解放」各号記事の3分の2程度をこれが占めている。
また最近では、「神戸小学生連続殺傷事件」を「権力の謀略」であるとして弾劾する記事も毎号のように掲載されている。この一連の「神戸事件謀略論」キャンペーンは、実は他党派の内部撹乱を狙ったものと見られ、日本共産党をはじめ、またその他の敵対諸党派にも一定程度の打撃を与えているようである。
反帝・反スタ
革マル派の革命理論は、同派の前議長・黒田寛一の「反帝・反スタ」理論である。これは、トロツキズムの「反帝国主義・労働者国家擁護・スターリン主義官僚打倒」理論を”批判的に摂取”したもので、
国際的には
* 先進資本主義国家に対して・・・資本主義国家権力・帝国主義打倒
* 社会主義国家に対して・・・スターリン主義官僚打倒
国内的には
* 日本帝国主義打倒 +「スターリニスト日共」打倒
の一挙的実現を目指すものであった。「労働者国家擁護」が抜け落ちた一方、「反スターリン主義」が強調されている、という点が黒田の独創である。
革共同第一次分裂において、「100%トロツキスト」を自認していた太田龍の一派(のちの「革共同・第4インターナショナル日本支部」)は、第4インターナショナルの多数派であるパブロ派の、「反帝」と「労働者国家擁護」を主とし「スターリン主義官僚打倒」を従とする理論に従うべきだとの考えから、黒田理論とは相容れず、革共同を脱退する結果となった。
しかしこの黒田理論じたいは、革共同第三次分裂によって黒田らと袂を分かち、以後、革マル派の不倶戴天の敵となっているあの中核派でさえ、いまだに完全には否定しきれていない。中核派は、黒田理論の革命的共産主義運動の発展に寄与した基礎的業績は認めざるを得ず、ただその今日的意義についてのみ、「黒田の理論は何一つ進歩せず、むしろ後退し今日の情勢に全く対応できなくなっている」との批判を加えることができているのみである。
中核派も今なお「反帝・反スタ」を掲げてはいるが、やはりどちらかというと「反帝」を重視する。「反スタ」に重きを置く姿勢こそが、黒田理論を忠実に継承する革マル派の特徴であると言える。
トロツキズム系運動の世界的諸潮流の中における黒田理論の位置づけは、第4インターナショナルにおける少数派であったキャノン派流れに近いものである、と言うことができよう。キャノン派は、「スターリン主義の条件付き擁護」を掲げたパブロ派に反対して、「反帝」と「スターリン主義官僚打倒」を主要な戦略的課題とし、「労働者国家擁護」を従属的な戦略的課題に引き下げるべきことを主張した。
基本路線
現代のプロレタリアートは、「二重疎外」の状況にあると黒田は説く。すなわち、
1. 資本制下の”賃金奴隷”としての疎外
2. 「”賃金奴隷”としての疎外」からの解放を任務とする「前衛党」からの疎外
したがって現代における革命は、この「二重疎外」からプロレタリアートを解放する「人間革命」でなくてはならない。そのために必要となる戦術とは、
・スターリン主義の欺瞞性暴露-マルクス主義の「現代的展望」としての「革命的マルクス主義」の理論の確立。(マルクスの理論をそのまま受け継ぐのではなく、「生きたマルクス主義」の「創造」、つまり「革命的再生」を目指す)
・「二重疎外」からの「自己解放」を目指す、新しい「革命的前衛組織」の確立。(「真の前衛党」を建設するためには、党は「たんなる革命家の組織」ではなく、「共産主義的人間としての主体性の確立」を成し遂げる「人間改革の場」でなくてはならない)
の2点に他ならない、という。こうした「理論・組織重視」が革マル派の基本路線である。
運動論
革マル派は、世界情勢に関して、「現代は『革命前夜』的な状況にある」(中核派元議長・本多延嘉の言)などといった現状分析を真っ向から否定しており、中核派の”大衆運動第一主義”を批判している。組織温存路線の立場から、1969年東大全共闘の安田講堂攻防戦では、機動隊の突入を前に唯一講堂から主力部隊を退去させて決戦を避け、同年9月の全国全共闘結成にも参加しなかったため、以後、他の新左翼諸派からはほぼ完全に孤立している。
*参考となる黒田寛一の発言:
「もっぱら危機感をあおりたて、焦燥感にみなぎった空疎な行動に走るのではなく、階級闘争の広大な大衆的組織と組織的基礎を不断に場所的に創造することが先決的任務となる」(『日本の反スターリン主義運動 II』 494ページ)
「決起するのは決定的な瞬間においてのみである」(『組織論序説』268ページ)
革命戦術
革マル派は、後進国における革命については「民族主義的限界」があるとして否定的であり、したがって「アジア人民との連帯」であるとか「後進国人民との共闘」などといった戦術に対しても、きわめて限定的な場合にしかこれを採用していない。
また、「革命の形態は武装プロレタリアートの組織化と権力との関係によって決まる」として、「暴力革命」を軽視はしていないものの、「武装蜂起」絶対主義ではない。「暴力革命」実行の可能性に対する立場は、一昔前の日共の「敵の出方による」論に近いと言える。事実、「いわゆる過激派」的な「武装蜂起」の典型として一般に捉えられがちな「爆弾テロ」や「金属弾テロ」・「放火テロ」などを行なっているのはあくまでも中核派や解放派などであって、革マル派は、このような「武装蜂起」は、一度として行なったことがないのである。
行動パターン
「たたかわない革マル」などと呼ばれ、その基本的行動パターンは日和見的であるとされる。これは、革命情勢が到来するまで、ひたすら力量の蓄積を図るべきだとする「待機主義」にもとづくものである。
組織としての「純粋性」を重視する立場から、さまざまな運動における他党派との「共闘」については、革マル派がその運動において「主体性を堅持」できる可能性がない限り、常に否定・敵対的態度をとる。他党派の集会を妨害したり、集会会場に大挙押しかけたり、会場のすぐそばで「独自集会」を開いてみたりする、などの手段によって、「闘争破壊」に乗り出すことも多い。
更新履歴
2007年6月21日 革マル派拠点・解放社を捜索~警視庁公安部
video(.wmv)を見る
警視庁公安部は21日朝、東京・新宿区にある過激派「革マル派」の拠点「解放社」へ家宅捜索に入った。
21日の捜索は、17日に行われた革マル派のデモをめぐって全学連(=全日本学生自治会総連合)の元委員長ら2人が公務執行妨害の疑いで逮捕されたのを受けて行われているもので、警視庁公安部は、革マル派の活動実態の解明を進める方針。
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早稲田という病 - 2
InternetArchiveより再録
リンチ殺害された川口大三郎君

47年11月9日、東大に遺棄された事件の最初の報道。
早大・川口事件
1972年11月8日、東大病院に一人の死体が遺棄された。
9日朝、東京文京区の東大付属病院構内で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署ははだしの足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。
男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった。(毎日72.11.9)

学生の革マル糾弾集会
11月13日正午、早大第一文学部自治会(革マル系)は文学部中庭で、事件後初めて「11.13反省集会」を開いた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって、革マル全学連委員長を辞任した第一文学部4年、馬場素明君も「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。約100人の学生が黙りこくって耳を傾けていたが、午後1時頃、約500メートル離れた本部校舎図書館前で「革マル暴力追放集会」を開いていた一般学生約300人がなだれ込んだ。学生たちは革マル派幹部に本部校舎で集会を開こうと要求、革マル側は文学部構内の記念会堂前広場を提案。約2000人が記念会堂前に集まったが、再び学生の多い本部校舎で開くべきだと一般学生の声。
これに対し、田中敏夫全学中央自治会委員長らは「その必要はない」と拒否したため、学生たちが怒りだし、幹部学生をムリヤリ連れ出そうとした。革マル派学生はキャンパスを逃げ回り、一般学生はこれを追い回し、早稲田通り馬場下交差点まであふれだし、両脇を学生に押さえられた革マル派幹部学生5、6人が本部校舎に連行された。吉本孝男など革マル派学生2名が三週間のけがをするなど、混乱の内に午後2次過ぎ、図書館前で集会が始まった。一般学生が革マル派学生に自己批判を求めてつるし上げする集会となり、一般学生も3000人にふくれあがった。
学生の中から選ばれた議長団が川口君を殺したことの釈明を求めると、田中委員長はしどろもどろになりながら「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない。」との答え。これに対し「人を殺さないとの確約書を書け」「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び会場は騒然。
マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さない。それでも何かしゃべろうとすると、たちまちヤジ。6人は沈黙戦術。
夕方になっても学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なり。警視庁機動隊員200人が待機する中、夜まで抗議集会が続いた。(毎日11.14)
革マル派幹部に対する一般学生の追及集会は14日朝まで延々18時間も続き、徹夜のつるし上げとなった。このため大学側は「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請、初めは「学生を刺激するだけ」しぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に、14日午前8時前川口君殺害事件以来初めて早大構内に入り、6人と一般学生にまじっていた1人の計7人を“救出”した。さらに同署は、6人を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。集会に参加した学生は大学当局が学生を遠巻きにするだけであっさり機動隊導入に踏み切ったことに強く反発、続々とつめかけた約1000人の一般学生が徹夜組の500人に加わり、今度は大学に対する抗議集会を続けた。(毎日11.14)
11.15 糾弾集会
午後二時から事件後三回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000人で行う。田中敏夫は「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」とし、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」という確約書にサインすることを拒否。翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。
田中前委員長は「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕も。
11.16 田中前一文委員長は糾弾集会で「自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく」という内容の確約書にサイン、学生は拍手で受けとめた。

11.17 川口君追悼集会(於:大隈講堂)
川口サトさんも、「大学当局の怠慢と暴力をなくすためにみなさんといっしょに終生闘っていきます」と挨拶、これに対して大学は11.17告示なる管理強化を内容とする告示を発表した。
11.18 糾弾集会で馬場全学連前委員長らが「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」旨の確約書にサイン。各学部でリコール署名がスタート。
11.22 革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで、文学部に乱入。
11.24 革マル約70人が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マルの居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マルの集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか、数名の負傷者を出した。
11.25 革マル派250人(全都動員)、田中敏夫のけがを口実に反撃。
11.27 革マル派全国動員の300名本部前で集会。
11.28 大学当局、ロックアウト。革マル派は、それにもかかわらず文学部181教室を占拠。予定されていた一文学生大会は15号館で他学部学生4000人の支援のもとに1500名を集めて開催。革マル執行部をリコール、臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択。夜には社会科学部も学大を開催。革マルは400名で学大粉砕を叫ぶ。
11.29 同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル鶴巻公園に500名。
11.30 検問体制のなか、政治経済学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。
12.1 商学部学生大会。法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会、民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられた。
12.2 一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足。革マルの反撃は個人テロにエスカレート、これに対して一文行動委員会が結成された。
12.4 川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」と訴えた。大学は村井総長への面会を拒否した。
12.5 本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。文学部では浅井一文学部長の出席で大衆団交。学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサイン。
12.6 村井総長は団交拒否。
12.7 政経学部、新執行部。
12.8 臨時執行部主催「寒い冬を越すための大コンサート」
12.9 冬休みに入る
1.7 全学前段階総決起集会
1.8 全学総決起集会 全学行動委員会、黒ヘル着用。
1.11 政経学部、学部団交。
1.12 団交要求集会
1.13 一文で自治委員選挙告示、革マルのバリケード突破し、選挙
1.16 政経学部、学部団交。
1.17 一文、革マル派の自治委員総会。それに対抗した反革マル部隊が革マルの攻撃を受け、十数名が負傷。
1.18 文学部、ロックアウト。これに抗議する行動委員会などが機動隊と衝突、一名逮捕。夕刻、中核派が革マル派と本部正門前で衝突(中核60名逮捕、革マル逮捕者無し)。
1.19 革マル文連総会。政経学部学生大会。11号館に追いつめられた革マルが投石などで対抗、政経学部生一名、頭蓋骨陥没の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷。

内ゲバによる混乱
1.20 理工学部をのぞき全学ロックアウト。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。
1.22 政経学部、試験阻止。機動隊導入、15名逮捕。
1.23 一文学生大会、1500名で開催。期末試験をストライキで阻止することを採択。1週間ストライキを決定。
1.24 一文行動委員会中心にピケスト突入。革マルとこぜりあい。大学当局、試験延期。
1.25 教育学部、学生大会。一文では自治委員総会成立のための定足数を突破。
1.27 一文、新執行部、自治委員総会開催。
1.29 一文、第二回学部団交。教育学部スト突入。
1.30 一文、学生大会。第二派の1週間スト可決。
1.31 社会科学部、学生大会。一文自治委員総会。
2.1 一文学部団交。
2.2 政経、学生大会で3カ月ストライキ可決。社学団交、教育団交。
2.3 政経、教育で学生大会。
2.5 一文、学部団交。十人委員会総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサイン。
2.6、7 一文で学部集会。一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。
2.8 一文、卒業予定者分離試験実施。10号館で、総長団交要求総決起集会、ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。春休暇に入る。
2.23 48年度入学試験開始(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。
4.1 新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会。

混乱の中行われた入学式には、黒ヘルが乱入、中止となった。
4.2 早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、黒ヘルが壇上に乱入。午前の部の段階で入学式中止。革マル派は式場外で集会。
4.4 革マル派、鉄パイプで襲撃。負傷者30数名、うち重傷10名。
4.5 本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派一名が包囲される。
4.9 二文で小競り合い。4.10 革マル、代々木駅で集団登校の学生に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。
4.11 革マル「統一行動」集会(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。
4.13 教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。
4.14 新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。
4.21 一文学生大会。革マルの妨害行動。
4.23 二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。教育学生大会、革マルの妨害で流会。
4.24 一文自治委員協議会
4.28 革マル220名、「4.28全国集会」のため集会。
5.2 一文、学部団交。革マル10数名壇上に乱入。これにより、学部側が団交継続拒否。
5.4 一文、自治委員協議会で5.2団交の総括。
5.7 一文団交を妨害するために、革マルが全都的動員をかけ、文学部で衝突(2名負傷)。
5.8 総長拉致団交

村井早大総長拉致団交
全学行動委員会は理工学部で講義を行っていた村井総長を法学部8号館301教室に拉致。約2000名の学生が集まる。村井総長は、5.17正式団交を約束。革マルとの衝突も。
5.12 早慶交流集会
慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マルは慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ、東大で集会。
夜、革マル30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。
5.14 革マル、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。
この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。
夕方、一文自治会委員長が法学部8号館前で革マルに鉄パイプで襲撃され、重傷。
5.15 革マル全国動員(500名)で本部集会。
5.16 5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マルの集会。
5.17 革マル派、早稲田一帯を制圧。全学団交実行委など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや、革マルが鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが、機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。
未完
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早稲田という病 - 1
InternetArchiveより再録

革マル派の襲撃に逃げまどう学生(早稲田大)
内ゲバ前史
戦後、革命党といえば日本共産党だけという状況だった。帝国主義の中で共産主義国家を守ったスターリンの下、ソビエト連邦が 世界の共産主義者の総本山として君臨していた。
ところが1955年六全協決議で、共産党中央がそれまでの武装闘争を自己批判。1956年フルシチョフのスターリン批判とハ ンガリー暴動でその信仰にひびが入った。
その動きの中で、共産党が依然スターリンを「間違いはだれにもある」と部分否定するのみで、ソ連の現状を肯定するのに対して、スターリン批判(一国社会主義批判や、ハンガリーに見られた ソ連の帝国主義への批判)するものが共産党から離れ、新左翼を形成していく。
その中で、一貫してスターリンを批判し、スターリンに殺されたトロツキーを再評価するものが57年第四インターナショナル日本支部を結成、その中には黒田寛一、太田竜などがい た。「疎外された人間の人間的=普遍的解放」(マルクス)のためには世界革命を完遂する以外になく、その為にはスターリニス ト打倒のためのもう一つの革命が必要。しかし、太田が100%トロツキストを自認していた(純トロ)のに対して黒田はトロツ キズムは批判的に摂取すべきものと考えていた。
日本共産党と新左翼の批判点
反共・トロッキストと批判
(共産党)→→→→→→→→→→→→(新左翼)
←←←←←←←←←←←←
スタリーニズム批判
民族解放民主革命の理論(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段階革命論)で「歌ってマル クス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線をとる共産党(=パルタイ)に対して、共産主義者同盟「ブント」を名乗る。 学生は共産党に反発(6.1事件)、共産党は学生運動(全学連)でのヘゲモニーを失う。こういった動きの中で、60年安保 (6.15国会突入、女子学生の死亡、アイク訪日阻止)は共産党とブントの組織切り崩し合戦となった。しかし、ブントは革命党と して必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊した。そして、その半数は革共同全国委員会に移行(第二次分裂)、 60年ブントは弱体化する。
<60年安保>
米軍の日本駐留の承認、日本の軍事力の増強の義務化と共に、在日米軍が攻撃された場合の日本の軍事行動の義務づけが行われており、事実上の軍事同盟になっていた。
革共同の一次分裂
革共同→西京司・・・第4インター参加
→黒田寛一・・・第4インターに不参加→革共同全国委→マル学同
革共同全国委は、黒田、本多が中心となり、国民会議や共産党を右翼的とし、ブントを街頭極左と批判して、中間層を掴んだ。安 保で消耗するブントと裏腹に組織を拡大、全学連書記局を握ったことで全学連を支配した。
そして、マル学同と旧ブント(三派・つるや連合)との間で角材をつかった初の内ゲバが行われた。清水丈夫が角材を初めて使用、 「岡田式暴力的衝突も含めた党派闘争」などといわれた。
革マル・中核の指導的人物
黒田寛一)
結核菌で失明し、秘書に読ませて勉強。独特のクロカン節でカリスマ性を持つ。その思想は組織論に独特なものがあり、自派の組織強化を第一義とする。
本多延嘉)
早大細胞の中心、早大新聞、前進の編集を続ける。全国委では黒田の右腕=書記長として活躍。第3次分裂で黒田と袂
を分かつ。
反マル学同グループ→後に三派系全学連(後に中核派も入る)
共産党系→民青全学連
革共同全国委は共産党以上の組織をつくると意気がったが、62年参院選で黒田寛一はわずか2、3万票しか獲得できず落選。
マル学同は他党派の集会に押し掛け、統一行動を呼びかけて妨害する。他党派解体路線をとったが、62年大学管理法闘争で学生 運動は高揚期に入っており、この時は他派はむしろ組織を強化してきていた時期で、人気は新しいところ(マル学同を批判す るブント系、社青同構改派)に集まった。
内ゲバの激化
組織の考え方の違い(他党派の批判ばかりする黒田と他党派と共闘する中で引き込んでいこうという多数派の対立)で、黒田と本 多が対立、上部団体の革共同全国委の第三次分裂で、マル学同も分裂。黒田、倉川篤(松崎明)森茂らが革マル派として分かれた。 しかし、親組織では少数派の革マルも学生組織ではむしろ多数派を占めていた。そこで学生組織では反対に、本多派が「中核派」として分離していった。
革共同全国委→本多(多数)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中核派(少数)
→黒田(少数)動労中心、革マル派・・・・全学連(多数)↑
大衆運動への取り組みについての相互批判)
中核→→→革マルの主体性は大衆蔑視のプチブル的主体性、→→→革マル
セクト主義、理論フェチ、日和見主義
中核←←←革命の主体性を欠いた大衆追随主義、過激主義←←←←革マル
情勢分析についての相互批判)
中核→→→危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義→→→革マル
中核←←←←←主観的、信念に基づく危機感のあおり立て←←←←←←←←革マル
63、4年 社学同の分裂(マル戦派、ML派)などセクト分化進む(5流14派)
67/10 第一次羽田闘争で、山崎博昭死亡
革マル全学連と連合4派(中核+社学同、社青同解放派、構改派)の対立
内ゲバ 63/9 清水谷乱闘事件
64/7 早大殴り込み事件
暴力導入による問答無用化、その中で奥浩平の自殺(「青春の墓標」)という悲劇も
65年からは、私立大学の学費値上げ反対闘争が盛り上がる。
反代々木系セクトは3つの全学連に)
連合4派→構改派脱落→66年三派全学連→反帝系全学連
→中核派全学連(独立)
中核の躍進、民青の台頭の反面、マル学同(革マル派全学連)は、拠点校が早稲田 などに限局され、「ワセダ全学連」と揶揄されるほどに退潮した。 (革マル派は、革マル派の組織拡大強化が革命への道であり、運動は革マル派の組織強化と 考えていた)
大衆運動へのコミットの仕方
中核派は大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという方針なので、人気も 出て勇ましい。しかし、一方逮捕など組織的な消耗を避けられない。
革マル派は、個々の大衆闘争に組織をかけるなどは論外のことだ、と見る。
67年~「激動の7カ月」---この頃、「ヘルメット+ゲバ棒」というスタイルが定着
佐藤訪ベトナム、訪米阻止、エンタープライズ寄港阻止、王子野戦病院阻止、三里塚闘争
秋山勝行・中核派全学連はとにかく日和らず機動隊に突進する。これに対して、警察はどん どん逮捕して、保釈金で財政的にも締め上げ、弾圧していく。しかし、それでも中核派は勢 力を伸ばし、反代々木系の最大セクトに成長する。
これに対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判、 「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けた。
これには、中核派は革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激 動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判、武闘路線を邁進した。
65年あたりから、機動隊の装備は向上、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメッ トなどが登場する。デモ隊をサンドイッチして行進する「並列規制」などでデモ隊に無力感 を与えた。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンを登場させた。
このような戦術の過激化は、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大生や学生労働者よりは るかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚の農民の影響もあったと思われる。
この時点で、武闘派には中核と反中核、反武闘派には革マル、構改派そして社青同解放派な どがあった。又、反戦青年委員会も各セクト別に分かれていた。
武装闘争期
68年10月 国際反戦デー 新宿で2万人、騒乱罪適用
国際反戦デー 新宿騒乱 - 1968
69年 1月 東大安田講堂事件
全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968
全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969
4月 沖縄闘争 1.5万人 破防法
4~12月 学園砦死守闘争 広島大、早稲田大、京都大など
9月 全国全共闘結成大会
10月 国際反戦デー
11月 佐藤訪米阻止闘争
東大安田講堂事件で、革マルは取り返しのつかない汚点を残した(安田決戦敵前逃亡事件)。
東大では他セクトとともに全共闘に入っていた革マルが機動隊導入の前夜に守備担当していた法文2号館から 退去、そこに機動隊が陣取ることで隣の法研への攻撃を容易にした。これ以後、全国の大学で革 マル派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられ た。これに動揺した革マル派は、今まで批判していた武闘を行うようになった(ありばい闘 争と非難される)。但し、大衆的にやるのではなく、少数の決死隊によってやる。しかし、 いざ内ゲバになると革マルは強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒 りを買うことになる。
69年に激しい武闘を連続させた8派は多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中 核派は逮捕者が多く、逆に革マル派はほとんどなかったために、相対的に組織力が強化され たことになる。これは他派から見れば、自分たちが命がけで戦った成果をかすめ取ったもの だという不満となる。
11月28日 東大裁判欠席判決への抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派が内ゲバ
12月14日 糟谷君人民葬でも参加しようとした革マルと内ゲバ
12月15日 中核派全学連が革マルを武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。
暴力革命論の復活と武闘派
これまでレーニン的な実践的暴力革命論は観念的に受けとめられ、それほど現実的に想定さ れてこなかった。そこに、69年中核派の暴力革命論が登場する。
プレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを 大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズがよく引用された。
69年東大闘争で本格化した火炎瓶は改良され、火をつけなくてもよい触発性火炎瓶に変わ っていく。又、機動隊との正面衝突から少人数軍団編制のゲリラ戦法に。
69年夏 赤軍派が登場。「前段階武装蜂起」
その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力 に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。そして、手製爆弾の製造にと りかかるが、11月5日、大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された。
これを他人事と思えないという中核派に対して、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」 と揶揄した。このころ、警察は中核派に対して本多、藤原、松尾などを破防法で逮捕し、破 防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。

しかし、革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必 要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメということで、中核派は指導部 を公然、非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に 潜行した。
しかし、11月決戦で大敗北し、多数の逮捕者を出し、この状況で12月18日東大裁判支 援集会での内ゲバにも敗れる。しかし、この頃から中核派の反戦労働者が武闘に参加し始め、 また人の殺害に対する処女性を喪失し、死者出てもやむなしという考えに進んでいくことになる。
未完
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秋田明大
秋田 明大(あきた あけひろ、(あきた めいだい)、 1947年1月2日- )は、新左翼活動家。日大闘争時の日大全共闘議長(総帥の地位)。広島県安芸郡倉橋町出身。
秋田明大「あほう鳥」
★シングル・レコード/7インチ盤
★1976年発売。元・日大全共闘議長。両面:加藤登紀子作曲。
1968年の日大闘争で全学共闘会議議長となる。アジを得意とはしなかったが、茫洋とした包容力で、全国一の動員を誇った日大全共闘を指揮した。「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使った。1968年9月、両国講堂で3万人の学生と共に古田重二良日大理事長・会頭を糾弾後、潜伏。しかし大学側が導入した機動隊の前に次々と拠点を失い、翌1969年3月12日逮捕された。
全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968
いろんな事件や、闘争について、
何でもしゃべる人がいるけど、
人間、しゃべれることはたった一つだ。
自分にとって、切実な、必死なこと。
つまり身をもって闘っていることを、
やっと語れるだけだ
『若き実力者たち』沢木耕太郎著 より
related Links
全共闘世代と日本経済(InternetArchive)
東大闘争と日大闘争
日大斗争ドキュメント
日大全共斗博物館
JAPON Les Annees Rouges (日本 赤の時代)
「電脳ブント」より
上記「電脳ブント」link切れにつき、以下に再録;
広島県倉橋島出身。60年代末の全共闘運動で活躍したに活動家。日大全学共闘会議議長、全国全共闘連合副議長。現在自動車修理工場自営。 68年、二つの脱税事件が国税庁によって摘発された。日大当局=会頭古田重二良(01-70)の使途不明金22億円の脱税事件、理工学部教授による裏口入学金3千万円の脱税事件である。さらに、この不詳事は、教職員を分断するための私設警備員へのヤミ給与問題、経理課長失踪事件、ベテラン経理課員自殺事件へと連動し、マンモス私学経営が胚胎する底なしの腐敗の実体を浮き彫りにした。
日大闘争は、これら一連の不正事件を直接契機にして始まった。 最初の闘争は、経済学部学生会が採択した抗議文が、学内掲示板から一方的に撤去されたことに対する抗議集会であり、さらに、集会直後に決行された同じ経済学部学生2000名による街頭デモとして、学内外から注目を集めた。この日大生の街頭デモは、神田白山通りの校舎前から自然発生的に始まったものであり、日大学生運動史上において、学外において敢行された初めての街頭デモであった。しかも、その短い進行距離から「200メートルデモ」と称されたが、この小さな200メートルデモは、やがて「数万の大軍」に成長し、日大学生運動史上初めての歴史的快挙として後世にまで語りつがれるようになった。
秋田は日大経済学部在学中の一学生に過ぎなかったが、いつの間にかこの「伝説のデモ」の先頭に立っていた。闘争はたちまち全学部(11学部=14校舎)に波及した。全学総決起集会の開催、各学部全学共闘会議の結成を経て、68年、7000名が参加した日大全学共闘会議(全共闘)結成へと急展開し、議長に秋田明大を選出した。全国的な全共闘運動の昂揚のなかで、「古田体制打倒!」の掛け声は、全国学生運動の「熱い共感」を呼び、「東大=日大闘争」といわれて68年全共闘運動の双璧をなした。 「それは日大の根底的な変革闘争である。それ故に“日大革命”であり、古田体制に対する10万学生の総反逆を引き起こした“大衆闘争”であり、同時に日本最右翼大学における反逆だからこそ、必然的に戦闘性をもつのである」(日大文理闘争委編「反逆のバリケード」69年) 「あらゆる人間的な要求や希望を踏みにじられた地点から…また、過去の如何なる経験や運動とも無縁な『未開の聖域』からの闘いであった」(『大学占拠の思想』秋田編、69年)。
日大闘争には三つの特徴点がある。
第1の特徴は、60年代高度成長時代のマンモス私立大学が共通して内包した矛盾の露呈であったこと。高度成長時代には、大卒人数が中卒人数を上回り、大学生は100万名を突破するという世界に例を見ないような学歴構造へと激変する中で、日大の学生数は11学部11万名にふくれあがった。このような「超マスプロ私学経営」「マスプロ授業」による異常事態こそは、中堅技術労働力再生産過程に深く組込まれた当時のマンモス私立大学が直面した歪みあり、闘争の爆発はその歪みの顕在化であった。
第2の特徴は、「体育系右翼学生教職員による日大アウシュビッツ体制」といわれた直接的暴力による学内強権支配に対して、全学的に鬱屈した憤激が沸点に達したことである。
第3の特徴は、学問の自由、学園の自治、人間解放を掲げた典型的な「学園民主化闘争」であり、「理事総退陣、経理公開、集会の自由、不当処分撤回」の5大スローガンと、9項目の要求をスローガンに掲げて、戦闘的に展開された。
日大全共闘は、結成直後「全学無期限バリ・スト」(バリケード・ストライキ)に突入した。これに対して大学側は職員・体育会系・私設ガードマン・右翼テロ、さらには警察機動隊を導入して校舎ロックアウト、殴り込みによる攻撃を加えてきた。学生は数百名の逮捕・負傷者を出しながらもバリケードを挟んで、奪還、破壊、再奪還の攻防戦を闘い抜いた。個別学園闘争としては学生運動史上最大規模の激闘が連日連夜、約4ヶ月間繰り返された。その結果、それまで長いあいだ団交申し入れをはぐらかし続けてきた大学当局も、遂に、暴力的圧殺という強硬路線を断念して話合いに応諾した。双方は「日大両国講堂全学集会開催」に合意し、68年9月、そのまま10時間におよぶ大衆団交(学生3万5千名が参加)を実現した。あの「伝説のデモ」以来113日目であった。
闘争は学生側の全面勝利に終わった、かに見えた。ところが、翌日の閣僚懇談会において会頭古田重二良の盟友・首相佐藤栄作が「大衆団交は集団暴力である」と発言した。これを境にして攻防局面は急変した。機動隊はバリケード封鎖解除を強行し、秋田を含めた全共闘指導部8名に逮捕状を出して、闘争の圧殺に乗り出した。その結果、大衆団交から半年後の翌年4月には授業が再開され、キャンパスは「テルミドールの反動時代」へと逆戻りした。
秋田は潜伏半年後に民家の雪かき中に、公務執行妨害などの容疑で逮捕・拘留された。その間に、日本学生運動史上最大の組織規模を誇る全国全共闘連合が結成された。秋田は獄中不在のまま副議長に選ばれ、全共闘運動を象徴する活動家として、学生運動史に「アキタメイダイ」の名を轟かせた。 当時の秋田は、彫りの深い顔立ちと長髪、大柄で野性的風貌を併せ持ち、若者にとっては世代の寵児でもあった。秋田達が同世代に向けて発した闘いへのメッセージに対して、同世代の二人の作家が評している。 村上龍:「佐世保で闘っていた頃の僕にとって、日大闘争を闘ったあなたは疑いもなく英雄でした」 沢木耕太郎:「僕と同じ純粋戦後派の書いた最も美しい文章…。君の第二の人生も、君自身が開こうとするなら、必ず君を待っている」 当時、学生運動活動家としての秋田は、どの政治党派にも所属しないノンセクトであった。当然のことながら、新左翼諸党派にとって秋田は入党オルグ(勧誘)の有力なターゲットであった。そればかりか、会頭古田グループからもねんごろな獄中の差し入れを受けるなど、複雑な政治的諸関係の中に位置していた。とりわけ、日大に拠点をもっていたML同盟派と中核派との微妙な党派関係の中で、秋田は、ML同盟に所属していた日大全共闘書記長田村正敏(47-98)との緊密な関係を維持していた。だが、党派的には、政治的旗幟を鮮明にしないで、あくまで無党派に自己限定しても、実践的にはなんの支障もきたさなかった。結局は、自己の存在を、全的に委ねることが可能な政治的預託先を見出せないまま、ノンセクト・ラディカル(無党派活動家)に止まった。
秋田が選択したこの政治的決断は、全共闘運動終息以後の秋田の姿を予兆させるに十分でもあった。というのは、後にみるように、この無党派への決断は政治路線や未来への活動の展望を含めて、そのなかにおける、秋田自身の政治的役割や社会的活動への自信、確信の有無等を自分なりに考慮したうえで下した決断でもあった。そのときの決断をふくめて、結果的には、過去との政治的、社会的訣別へと連動していくことになった、と思われるからである。 69年 5月、日大闘争一周年4000名理工学部デモ、校舎内突入。
9月、全国全共闘連合結成大会。 70年 全共闘運動は下降局面に入った。 71年 三里塚闘争、渋谷・日比谷暴動事件、爆弾闘争開始。 72年 連合赤軍浅間山荘銃撃戦事件、その直後発覚した粛清事件。 日大闘争の終局は、同時に、秋田にとっては彷徨・遍歴の時代の始まりであった。街頭で自作の詩集『幻視行』(70年)の販売を試みたが、二作目が続かなかった。テレビ局の大道具係り、中国物産展の露天商、バスの車掌、飯場生活等、さまざまな仕事を経験した。1日1食という日もあった。伝聞ではあったが、辞書を煎じて飢えを凌ごうとしたが、「その代償は下痢だった」という話も、他人事には思えなかった。 「まだ闘いの余韻もあり、生きることへの熱気が残っていた。もし、ボクが女性の全共闘活動家であったならば、多分、娼婦になっていた」
この述懐は、理屈抜きにある確かな実感であった。さまざま手がけた仕事の中で、最高に居心地が良かったのは、仲間同士で気軽に盃を酌み交わせる飯場生活であった。そこには見栄、虚飾、追従、差別、作法等はなかった。世間の煩わしさから隔絶されたその世界は、決して己を飾ろうとしない秋田の性分には、この上なく相応しかった。
75年 映画「ピーターソンの島」(東由多加監督)に主演。 76年 レコード「あほう鳥」を吹き込む。 このような志向遍歴の中で「明日への模索」を続けようとしたが、いつの間にか、その試行錯誤にもピリオッドを打つときがきた、と思うになった。遍歴7年目にたどりついた結末が、ある一つの結論であった。 「東京にいても、ポン大(日大)卒の俺にできることは何もない…」 そう思った次の瞬間、「肩の荷が下りたように、全身の力がスーッと抜けていった。」時間にすれば、わずか2分間~3分間に過ぎなかっただろうか。だが、たとえ瞬間的な心理的作用であっても、全身を駆けめぐったあのときの衝撃的な爽快感は、いつまでも記憶の中に鮮明に残っている。 76年、秋田の決断と実行は早かった。 「では一体、どこに行くか→行く所はどこにもない→生まれた田舎に帰るしかない」 秋田は、常につきまとう「日大全共闘議長」という偶像への視線を絶つかのように、ずっしりと重くて大きい荷物を背負って、故郷の島に帰っていった。 田舎への回帰行は、ちょうどサケが生まれ故郷の川を溯るも同然であったが、その道行きは、一人の同伴者もいない夜汽車による西下の旅であった。ところが、秋田が背負ったはずの重そうな荷物の中身は、外観とはいささか肌合いを異にしていた。おおよそ、「過去の栄光」「実体のない名声」という観念の世界とは無縁であり、「偶像」という虚ろな実体ともかけ離れていた。
秋田は、車窓に映る夜景をぼんやり眺めていた。その窓辺の夜景に自分自身の表情を重ね合わせたとき、意外にも、そこには如何なる意味においても「感傷」という高ぶった感情は、こみ上げてこなかった。そこにはいつもとは違った相貌をみせる、クールでドライな自分がいるように思えた。あの激闘の10数ヶ月から始まった運命的な青春や、いま、眼前を去来する首都圏での数年間の日々の生活を振り返りながら、その青春に最後的訣別を告げようとしているにもかかわらず、わずかな感慨を覚えたに過ぎなかった。おそらくやせ細った体躯から感性や思考が奪い去られていたのだろう。実際、自分を取り戻すには1年ちかい月日の経過が必要であった。
とはいえ、西下の夜汽車の乗り心地は、別な意味でサバサバしていた。その理由と根拠は明白である。秋田自身は「日大全共闘議長」「全国全共闘連合副議長」という過去の肩書きに対して、「初めからどんな意味付与もしていなかった!」。10ヶ月の未決勾留を終えて東京拘置所から出てきたときも、日大闘争の巨大な歴史的意味にさえ「気が付かなかった」。そのために、栄光を背負っているという想念を抱いたことは「一度もなかった!」。しかも、封印しなければいけないような、観念としての過去は「ひとカケラも存在しなかった」のである。
西下の車中でズームアップされた追憶は、ひたすら闘争に明け暮れる毎日、パンと牛乳だけの清貧な食生活、頬骨が骸骨のようにこけ落ちた彫りの深い顔立ちや、長髪で野武士のような風貌を映しだす鏡のなかの自分、右翼に命を狙われているというリアルな恐怖感をつねに抱きながら、「わき目も振らずひたすら愚直に闘った」という幻影だけが脳裏に焼き付いているに過ぎなかった。しかも、このように脳裏に去来する追憶の中の光景さえも、いまでは彼方に轟く遠雷にも等しかった。
「俺は、何故騒がれてきたのだろうか…。でも、これで騒ぎは一段落してくれるだろう…。俺は、やがて誰からも見捨てられるだろう…」 そう思った途端に、規則正しく軋む夜汽車のレールの音が、疲れた脳に心地よい刺激を与えてくれた。深い眠りに落ちるにも、長い時間を必要としなかった。27歳であった。 帰郷して間もなく、広島県呉市内で親戚が経営する自動車工場で働くことになった。やがて、10年間で技術を身につけて独立し、単独で倉橋島音戸町の自動車整備工場を自営、そのまま今日に至っている。その間、ひたすら真面目一筋に働いた。親に無心したこともあるが、細々ながら糊口をしのいできた、というのが生活実感である。離婚や再婚も経験したが、一男二女の家庭は、いまではどこまでも静穏な時空にあった。
秋田は、東大全共闘代表の山本と常に並び称され、両者は多くを語らない点でも共通している。秋田自身は過去と断絶し、帰島後もそのまま沈黙を守り続けてきた。70年安保・沖縄・全共闘運動の歴史の節目に、わずかに地方紙のインタビュー記事が、秋田の消息を伝えてきたに過ぎなかった。 ところが、一見穏やかそうにみえたが、隠棲したはずの田舎暮らしにもすきま風は吹き抜けた。最初に見舞われたのは帰島直後だった。まだ、旅装も解かないその年のうちに、予告なしに先輩の訪問を受けて、遮二無二、東京に2泊の出張旅行と相成った。その直後に「秋田明大、参議院選出馬か」のニュースが流れた。
推薦政党は、社会党右派系(江田五月)の社会市民連合。言うまでもないが、このニュースの発信源をたぐり寄せていくと、その先には、抜群のセンスと行動力によって学生運動史上にその名を刻んだ日大全共闘議長秋田明大という「過去の栄光」があった。思うに、あの西下の車中で結んだ夢は、うたかた過ぎなかったのか、初めから心地よい寝覚めを妨げる悪夢であった、ということになりかねなかった。当時の秋田を知る同世代の若者達も、突発した事態の解釈にとまどったことは確かである。でも、結局出馬は取りやめた。 「こんなところ(政界)には、俺の居場所はない」 そう直感した秋田にとって、この椿事は、示唆的出来事であったといえるかも知れない。というのは、あの時の秋田は、早々と政治的社会的舞台から身を引いて、市井に生きる第二の人生へ向けて再出発を目指していた。この選択的決断は、秋田にとっては「正解」であったといえよう。外野席からは、つむじ風の中に光り輝いたあの青春の光芒は、まばゆいほどに記憶の中の残照であり続けた。そのような余塵漂うただ中で、秋田本人は冷徹で鮮やかな決断をきっぱりと下したのである。この鮮やかな決断こそが、アイドルタレントへの悲劇から秋田自身を救ったのである。
いずれにせよ、このような予期せぬ出来事は例外に近かったが、その後も、さまざまな人達が直接、間接を問わず秋田の元を訪れ、忘れたころにやってきた。その内で統計的に最も多い来訪者はマスコミであった。多いときには1ヶ月に2名くらいで、質問事項も例外なくワンパターンで、いまだに恒例になっている。ごくまれには、知友人に会うこともある。もたらされる情報は、感慨深いものであった。 「全共闘種族は、皆それぞれが自分なりに波瀾万丈の人生を送ったんだな」 秋田は、かっての盟友田村がガン死したという知らせを、親友から受け取った。その際に、田村が北海道で選挙の勝手連をやっていたという話も、訃報と併せ知ったとき、秋田は懐かしさがこみ上げた。 「もしも、田村が生前に、“来てくれ”と言えば、出掛けたのに…」 秋田がかっての盟友田村に寄せたこのような優しい思いは、たんなる過去の友誼を意味しているだけではない。青春時代に抱いたあの高い志の片鱗と記憶が、たとえ、現在的には時間の経過さえも感じさせないような静穏な市井に身を置いていたとしても、脳裏のどこかにそっと影を忍ばせているのかも知れない。この影の大きさは、全共闘運動という自己存在への根底的な問いかけを迫った闘争の質量に比例しているのかも知れない。
来訪者がすべて善意の人とは限らない。顔のない客もいる。それは明らかに「ストーカー行為にも等しい」のだ。そのような客の意図を測りかねる時は、不快感も極に達する。 「お願い! 詮索無用」 こんな貼り紙を、マジで玄関に貼り出したい衝動にも駆られるが、「変人扱い」されたくないし、そんな「勇気もない。」このような小心と無抵抗とを、加齢のせいにするには、いかにもまだ壮年に過ぎる。たんなる諦めの境地なのかも知れない。 「名札を付けて泳がされている回遊魚」 このような錯覚に襲われることもあるが、いちいち気にすると際限がない。いまは「田舎の自転車屋」のような、ごくありふれた日常の中にあって、ひたすら家族共々に安寧を願う日々を送っている。2歳足らずの末っ子を膝に、相好を崩して缶ビールをたしなむ姿が、いまは一番似つかわしい。
編著書『獄中記』(秋田明大、全共社)。『大学占拠の思想』(秋田明大編、三一新書、69)。詩集『幻視行』 (秋田明大)。参考文献『帝国主義大学解体』(日大経済学部闘争委員会編)。『反逆のバリケード』(日大文理学部闘争委員会書記局編、三一書房、69年)。『実録 山本義隆、秋田明大』(立花隆、文芸春秋10月号、69)。
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高野悦子
「 好きなレコードをききながら、毎日を独りで過ごすのもいいですが、生活費だけはアルバイトで稼ぎ、自分の時間は好きな詩を読んだりレコードを聞いたり、そして時には旅に出たりするという生活もよい。
けれども闘争のない生活は、空気の入っていない風船、タマの入っていない銃、豆腐の上にのせたコンニャク、からっぽの膣、空中に向って出された陰茎……で
はないでしょうか。「闘争か、血みどろの闘争か、それとも死か」という言葉があります。どこかでそんな言葉をよんだことがあります。」
「あなたと二日の休日をすごしたい。
一日目―夜の暗さをネオンが寂しくつつむ酒場の狭い路地で、あなたを待つ。私の体をアルコールでずぶ濡れに洗い流し、私の醜さと美しさ、あらゆるものをアルコールで溶かし去り、ただあなたの安らかな寝息のそばで眠る。
二日目―疲れた体をおこして、すっかり陽の高くなった街に出て喫茶店に入る。煙草のかぼそい、むなしい煙のゆらめきを眺めながら、ベートーベンの「悲愴」とあなたの好きなブラームスのピアノ協奏曲第一番、それに私の好きなジャズをきく。ステーヴ・マーカスの「明日は知らない」とアートブレーキーの「チュニジアの夜」、そして最後の別れとして、マハリァ・ジャクソンの力強いゴスペルソングをきく。」
しあんくれーる
「しあんくれーる(Champ Clair)」は 京都市上京区河原町、荒神口の電停前にあったジャズ喫茶。
the Sound of feeling / Spleen / Limelight -late 60s? USA
双子姉妹の立体的なコーラスワークをフユーチャーした Leonard Feather Presents "The Sound of Feeling".
Side A
Hurdy gurdy man
HEX
Up into silence
The time has come for silence
Side B
Along came Sam
The sound of silence
Spleen
Mixolydian mode
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Director: Jouko Aaltonen,
Documentary, 80 minutes,
Finland, 2005
Nothern Lights Film Festival
A documentary musical about Finland’s 1970s generation,
and their protests that demanded a better world.
Music played a central role in political protest and
just like millions of other young people across the globe,
Finland’s youth started bands whose songs told stories of battles, socialism, and described the horrors of the events unfolding in Vietnam and Chile.
This film not only celebrates their passion
but also looks at what happened next as they grew up
and started to join ‘conventional’ society.
Combining live music from the time alongside new footage of the original musicians singing their old combat songs within the confines of their current jobs, this is a fascinating look at the human psyche,
showing just how easy it can be to forget what you believe in and move on with the rat race.
Finnish Film Foundation
Revolution is a documentary musical about the 70’s generation’s fight for a better world. Socialism seemed like a real alternative.
The movement offered a whole unified world where it would be easy to be on the right side – against anything old and reactionary. Songs played a central role in this revolution.
Hundreds of song groups sprung up.
The songs told stories of battles, solidarity, socialism, Vietnam, Chile.
Now middle-aged former revolutionaries return to their combat songs, singing in the environments revealing their present status and work places.
Music creates some distance and in many ways, depicts the experiences and spirit of the era.
The music also symbolizes the pomposity and rhetoric often so blatantly and comically at odds with reality and everyday life.
What has happened to the idealism of youth?
「鶴見和子さんを偲ぶ会」に参加して (吉川勇一) より:
ところで、この会に、旧ベ平連の関係者は、初代事務局長の久保圭之介さんはじめ、かなり多くの方が見えていたのですが、しかし、それは当時のいわゆる「おとな」組ばかりで、その頃の若者たち――今の団塊の世代のグループの顔ぶれはまったく見かけられませんでした。鶴見和子さんの思想に、その世代の人たちが関心を寄せていないのだとしたら、寂しい、残念なことだという思いがします。鶴見さんは、「ひとりの人間の生命はちりひじのように、かすかでみじかい。ひとりの人間の生涯に、その志は実現し難い。自分より若い生命に、そしてこれから生まれてくる生命に、志を託すよりほかない。……」とのべておられるのですから。
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★その4:「刺殺ゲバ」への深化
■「刺殺ゲバ」への深化
2000年
2月8日 福岡の赤砦社が狭間派のゲバ部隊に襲われ、福井大生だった片岡知和が殺害される。(分裂後、4人目の死者)
2月9日 早朝、神奈川県真鶴の熱海駅で、前日の狭間派の襲撃キャップとサブの女性が、
出刃包丁で武装した山茂派の追っ手によって、衆人環視のなかメッタ刺しされ死傷。
( 男性幹部のキャップ柿沼忠氏は逃れ出た駅のホームで絶命。同行の女性幹部も電車内で血の海に沈み失血死寸前。)(分裂後、5人目の死者)
8月30日 朝の通勤ラッシュで混み合う鶯谷駅東口を降り立った「山茂派の女性メンバーリーダー」格、 明大生協従業員組合書記長片山美恵子氏が、狭間派部隊に襲われ男たちの手にする刃物で小柄な全身17ヶ所をメッタ刺しにされ、即死。 (致命傷となったのは肋骨に逆らわないよう、刃を横にして彼女の心臓にまで達するよう出刃を突き立てたものだったと報じられた。)(分裂後、6人目の死者)
12月10日 山茂派は『片山殺害への報復』として、狭間派古参現役労組構成員・仲野茂樹を殺害。(分裂後、7人目の死者)
2001年
2月16日 相模原にある山茂派活動家宅前で、狭間派の襲撃部隊4名全員が凶器車輛もろとも、待ち伏せしていた公安私服部隊により一網打尽に遭う。(後日、殺人予備で起訴される。)
5月16日、千葉県八街市で、狭間派幹部の矢野義孝が襲われ脳挫傷で死亡。矢野氏は三里塚を活動拠点に県内では最高幹部の一人だった。(分裂後、8人目の死者)
8月7日 山茂派「革命軍」は、文京区本郷の「新しい歴史教科書をつくる会」事務所に放火。
12月8日 狭間嘉明最高幹部が川崎市内の病院で病死(肝臓ガン、享年55歳)。
2004年
2月17日 山茂派「革命軍」は、自衛隊イラク派兵への抗議として、新宿の防衛庁を狙った爆弾ゲリラ事件を起こす。
(防衛庁から800メートル離れた瑞光寺の墓地から迫撃弾の発射装置とみられる筒2本が見つかった。)
6月2日 早朝、狭間派テロ部隊は、東京三ノ輪(山茂派の拠点となっている山谷から至近)のマンションにある山茂派アジトを出てきた3名のメンバーを待ち伏せ攻撃。
通学の小学生の前でナイフやハンマーなどによる襲撃で、逃げ遅れた小山(高山)元全学連副委員長とその防衛役五十嵐(武本)氏の2名が出血多量などで即死。(分裂後、9~10人目の死者)
2006年
3月28 赤砦社内で山茂派幹部・岸本修氏が亡くなる(全身に皮下出血)という事態が発生。
山茂派は「肉体的精神的疲労が蓄積し急激な入浴ゆえに肉体的変調をきたした、心臓麻痺が死因」と発表。
しかし狭間派・警察は「山茂派内での内々ゲバによる傷害致死」容疑の見解。(分裂後、11人目の死者)
尚、故 狭間氏の潜行を助け、何年にもわたり最期は川崎の病院で『愛人 狭間の死』を看取り、 現在も逃亡・指名手配中である狭間派の女性活動家・岸本美穂は、この岸本修氏の元妻でもあった。

(参考:6月26日 革マル派最高指導者の黒田寛一が埼玉県内の病院にて肝不全のため死亡。)
8月15日 山茂派はマイクロバスで靖国神社に街宣(以下YouTube参照)。
●現下の内ゲバで特徴的なのは「小型の出刃包丁」が主要な凶器として登場しており、コンパクトな代わりに必殺の攻撃力も望めるらしく、 警察が職質をかけたら、両派とも「防衛用」に携帯していた・・・カドでの「未然の逮捕例」がいくつもある。
更新履歴
11月7日 警視庁宿署は新宿区内の路上でカッターナイフ(刃渡り7.1センチ)を所持していたとして 狭間派活動家、三村元是容疑者を同法違反容疑で現行犯逮捕。
11月14日 警視庁公安部は 狭間派の拠点「現代社」に、銃刀法違反容疑で家宅捜索。(video参照)
2007年
2月12日
午後11時ごろ、神奈川県座間市入谷3丁目の県立座間谷戸山公園で、近所の住民から「バンという爆発音が2回し、付近が燃えている」と110番通報があった。けが人はなかった。
座間署の調べでは、現場から鉄パイプ2本がみつかり、周辺の落ち葉が燃えていた。現場から北西約1キロには米陸軍キャンプ座間があることから、同キャンプを狙って何らかを発射したゲリラ事件とみて調べている。
谷戸山公園では2002年11月にも、キャンプ座間を狙ったゲリラ事件が起きている。(video参照)
※尚、座間爆発音は「アルカイダか」と米マスコミは報道:
米ABCテレビは12日、パキスタン情報筋の話として、日本国内で国際テロ組織アルカイダと関係の深いパキスタン人武装組織のネットワーク化が進んでいると報道、神奈川県の在日米陸軍キャンプ座間近くで同日起きた爆発音について、このグループが関与した可能性に触れた。報道は、武装組織と爆発との直接的な関連については伝えていない。
報道によると、武装組織は、アルカイダのナンバー3だったハリド・シェイク・モハメド被告=米国が拘束中=らの直接的な指示に従い1999年ごろから構築された。普段は一般人と変わらない生活を送り、いざとなると行動する「潜伏細胞」の組織化のため、20人以上のパキスタン人が90年代後半、学生の身分の査証(ビザ)で日本に送り込まれたという。
組織は、日韓が共催した2002年サッカー・ワールドカップ(W杯)でのスタジアム爆破を計画。結果的に実行されなかったが、情報筋はモハメド被告が日本国内でのテロ計画に「深い関心」があったとし、組織が現在も「日本国内の米国や西側の標的に対する攻撃」を計画しているとみているとした。
2月15日
迫撃弾装置:キャンプ座間で飛しょう弾発見 神奈川
神奈川県座間市の在日米陸軍基地「キャンプ座間」近くで迫撃弾の発射装置とみられる鉄パイプなどが見つかった事件で、県警座間署は15日、発射されたとみられる飛しょう弾を同基地内で発見した。
調べでは、飛しょう弾は長さ約36センチ、最大径約55ミリの円すい形。基地南側の第6ゲートから200メートルの芝生に刺さっていた。鉄パイプなどの発見場所からは約430メートル。爆発した跡はなかった。弾の中に爆発物が入っていないか鑑定する。同県警は火炎びん処罰法違反などの容疑で捜査している。
2月15日
映画『山谷 やられたらやりかえせ』の監督・佐藤満夫(84年12月殺害)と、映画の主題となった山谷争議団の幹部・山岡強一(86年1月殺害)の2名の殺害を実行した暴力団国粋会の、当時からの組長工藤和義が拳銃自殺。
(参考:「山谷争議団事件」、 映画『山谷 やられたらやりかえせ』、革労協 - その2)
15日午前9時20分ごろ、東京都台東区橋場、指定暴力団山口組国粋会の工藤和義会長(70)宅の2階居間で、工藤会長が頭から血を流して死亡しているのを訪れた組関係者が発見し、警視庁浅草署に届け出た。近くに拳銃があったことから、同庁では、工藤会長が拳銃で頭を撃ち抜き、自殺を図ったとみている。国粋会は、港区で2月5日、指定暴力団住吉会小林会幹部が射殺された事件に関与していたとみられ、同庁では、自殺と射殺事件との関連を調べている。
工藤会長は国粋会が2005年9月に山口組の傘下団体となった際、山口組の最高顧問に就任していた。
港区西麻布で2月5日、住吉会小林会幹部が射殺された事件の背景には、六本木など都内の繁華街の「縄張り」を巡る小林会と国粋会のトラブルがあったとされ、同8日、住吉会と山口組双方の最高幹部による話し合いが行われ、和解した。関係者によると、この場で、山口組の最高幹部が射殺事件への国粋会の関与を認めたとされ、工藤会長の責任を問う声が上がっていたという。
2月17日
キャンプ座間飛しょう弾発射装置事件:過激派が犯行声明
神奈川県座間市の在日米軍基地「キャンプ座間」近くで、金属弾の発射装置とみられる鉄パイプが見つかるなどした事件で、革命軍を名乗る犯行声明が17日、東京都内の複数の報道機関に郵送された。神奈川県警は、過激派の革労協反主流派の声明とみている。 声明文は「米陸軍司令中枢のキャンプ座間移転を許さない」などと主張し、ブッシュ米大統領のイラクへの米軍の増派やキャンプ座間移転などに対する革命的ゲリラ攻撃などとしている。 2002年11月にもキャンプ座間へ向け金属弾2発が発射され、革命軍と名乗る犯行声明が届いた。 今回の声明は「(02年事件の)歴史的継承」とし「新型迫撃弾」を使ったとしている。 警察当局は、従来の金属弾でなく、起爆装置を使った火薬などを詰めた飛行弾とみて鑑定作業を進めている。
赤砦社「解放」掲載の軍報:
革 命 軍
在日米陸軍司令部「キャンプ座間」基地に
革命的新型迫撃弾攻撃を遂行
2・12
革命軍より軍報が寄せられたので、これを公表する。
軍 報
わが革命軍は、二月十二日、午後十一時二分、神奈川県相模原市と座間市にまたがって、
広大に占領された、在日米陸軍司令部・「キャンプ座間」基地に対して、日米基地警備
隊・警察治安部隊の重包囲網を突破し、二門の革命的新型迫撃弾攻撃を敢行、在日米軍中
枢機能を徹底破壊-壊滅的打撃を強制した。
本戦闘は、二〇〇二年十一・一八戦闘の歴史的継承と、新たに開発した新型迫撃弾によ
る革命的健軍武装闘争の勝利を力に戦取したのだ。
この闘いは、「反米飯占領」のイラク内戦下、米帝・ブッシュによる米軍二万増派をも
っての悪無限的「掃討作戦」=イラク労働者人民大量虐殺に対する断固たる怒りの鉄槌で
ある。
同時に、殺戮の元凶たる米陸軍司令部中枢=米陸軍第一軍団改編親司令部の「キャンプ
座間」移転と、陸自・中央相応集団司令部の座間基地への新設を通した、朝鮮反革命戦争
-国際反革命戦争にむけた日米軍統合指揮センター確立を絶対許さぬ、革命的ゲリラ攻撃
である。
また、「イラク新政策」=イラクでの戦争拡大と、在日米軍再編を通した日米反革命階
級同盟の強化を下げ部、ブッシュの盟友副大統領・チェイニーの二・二〇来日を実力で阻
止する先制攻撃である。
わが革命軍は、「戦後レジームからの脱却」を標榜し、侵略戦争を美化する安倍連合政
府の総力をあげた「対テロ」組織壊滅型反革命弾圧をはねのけ、朝鮮反革命戦争にむけた
改憲攻撃=戦時体制形成を革命的武装闘争の大爆発で打ち破り、プロレタリア世界革命-
共産主義の勝利を生死を賭して闘いとる。
二〇〇七年二月十二日
革 命 軍
10月31日
革労協反主流派拠点を家宅捜索 介護報酬詐欺
身体障害者の介護を装い介護報酬を不正に受け取っていたとして、警視庁公安部は30日、詐欺の疑いで、革労協反主流派の拠点「赤砦社」(東京都台東区)や、居宅介護支援事業所を開設していた反主流派構成員の自宅など4カ所を家宅捜索した。
調べでは、反主流派の構成員数人が平成15年、足立区内に同区が指定する居宅介護支援事業所を開設。15年5月から18年2月の間、実際には介護をしていないのに、同じ構成員の障害者の介護を装い、勤務実態などの書類を偽造し、介護報酬を不正に受け取っていた疑い。
受給額は数千万円にのぼるとみられ、一部は組織の活動資金に流用していたとみて捜査する。
2008年
9月12日
12日午後10時半ごろ、横須賀市汐入町の山林で、「爆発音が2回して火のようなものがみえた」と110番通報があった。近くには米軍横須賀基地や海上自衛隊横須賀基地があり、神奈川県警は、過激派による基地を狙ったゲリラ事件とみて捜査している。
横須賀署などによると、現場にリード線や乾電池などが残っていた。現場には飛しょう弾2発が発射された形跡があり、発射台とみられる鉄パイプも見つかった。周辺住民に被害はなかったが、横須賀市消防局によると、付近の家のベランダの一部に損壊した跡があり、着弾とみて調べる。
横須賀市はこの日、外務省から原子力空母ジョージ・ワシントンが今月25日に入港するとの連絡を受けていた。県警は空母入港に反対する過激派の犯行の可能性もあるとみて調べている。
9月17日
米海軍横須賀基地を狙ったとみられる飛行弾発射事件で、産経新聞東京本社あてに17日、革命軍を名乗る組織から犯行声明文が届いた。
声明文は12日付で、「原子力空母『ジョージ・ワシントン』の配備を実力で阻止するゲリラ攻撃の第一弾」、「空母の配備は、日米同盟の強化をテコに戦争を拡大させるものだ」などとしている。
神奈川県警は声明文の内容から革労協反主流派が出したとみて捜査している。
革労協反主流派は昨年二月に在日米陸軍キャンプ座間(座間、相模原市)に向けて飛行弾が発射された事件でも犯行声明を出している。
現在、指名手配されている革労協のメンバー:
外園悦夫(凶器準備集合罪)
田中優(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
森永美佐枝(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
後藤あざみ(凶器準備集合罪)
岸本美穂(有印私文書偽造)
参照元LINK:
Wikipedia - 日本社会党
Wikipedia - 社青同
Wikipedia - 社青同解放派
Wikipedia - 革労協狭間派
Wikipedia - 革労協山茂派
Wikipedia - ブント
Wikipedia - 革マル派
Wikipedia - 中核派
Wikipedia - 全学連
Wikipedia - 全共闘
Wikipedia - 東大紛争
Wikipedia - 三里塚
Wikipedia - 狭山事件
Wikipedia - 全国部落解放青年同盟
Wikipedia - 山谷─やられたらやりかえせ
解放派関連リンク集
社青同解放派内「内ゲバ」事件について
全学連・誕生の歴史
全学連の“教祖”たち(滝口弘人ほかのインタヴュー)
所謂「革命軍 軍報」
明治大学生協労働組合、明大生協労組のホームページ
青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力(革マル派機関紙「解放」より)
がんばるな!?新左翼
「検証 内ゲバ」(社会批評社)
「月刊治安フォーラム」(立花書房)
YouTube tag:"革労協"
山梨県警による資料(pdfファイル)
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★その3:「現代社派」と「赤砦社派」の分裂=所謂、革労協「主流派」・「反主流派」の分裂
●「ゴスペル闘争」
反共主義・ファンダメンタリズムなどを掲げる「明大ゴスペル愛好会」
(ゴスペル研究会、ヨハン早稲田キリスト教会系列)との闘争が激化。
1998年10月18日 東京都新宿区戸山二丁目、同教会牧師の金圭東を襲撃。
1999年5月 闘争をやめて事態の鎮静化を図る穏健派である総務委員会内少数派の「赤砦社派」(反主流派、明治大学系、山茂派、木元派)と、徹底抗戦を主張する強硬派で多数派の「現代社派」(主流派、狭間派、千木良派)が対立~分裂へ。
●所謂、革労協「主流派」・「反主流派」について
主流派:
指導者 - 狭間嘉明
俗称 - 狭間派、千木良派、現代社派 = 「主流派」
拠点 - 「現代社」(杉並区高井戸)
反主流派:
指導者 - 山田茂樹
俗称 - 山茂派、木元派、赤砦社派 = 「反主流派」
拠点 - 「赤砦社」(台東区下谷)
■「全面戦争」を宣言~「明大戦争」~「明大失陥」
1999年
6月4日 狭間派のテロ部隊が山田茂樹に「死を狙った襲撃」をかけ、瀕死の重傷
(右上腕部骨折、左右大腿骨”開放”骨折、全身打撲で全治10ヶ月)を負わせる。
6月8日 山茂派が襲撃に備え明大学内サークル室などに搬入していた伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類をタネに警察が入り、 中心メンバー17名が凶準で逮捕。
6月12日 明大駿河台の学生部隊(=山茂派)に向け、狭間派は「私服部隊で武装潜入」をかけ 明大学生会館内の革労協各拠点の奪還を図る。(襲撃開始寸前未遂。)
6月13日 山茂派は『6・13軍声明』として、明確に狭間派に対し事実上の「全面戦争」を宣言。
7月2日 山茂派は狭間派の「明大生協理事」となっていた(キャップ古参)荻野氏(長田佳比古)を襲撃し殺害。
(松戸市で出勤中のバイクを倒され、側頭部へのハンマー連打を浴びその場で絶命。)(分裂後、1人目の死者)
7月21日 狭間派は7・2の報復として山茂派の同生協職員・中山(相川一郎)を殺害し反撃。(分裂後、2人目の死者)
7月22日 狭間派は明大生田キャンパスに再度、全国動員公然ゲバ部隊を差し向け、
構内の山茂派に白昼の襲撃。だが山茂派部隊はいち早く大学の退去命令に従い”逃走”、
狭間派のトラの子37名は、凶準と建侵で構内に入った全員が検挙・起訴され壊滅的打撃を受ける。
この大量逮捕がたたり、拠点の明治大各キャンパスはじめ山谷や福岡、九州大など「同派のシンボル」から
狭間派が一掃され、革労協の拠点は三里塚現闘以外、山茂派一色に塗り替えられてしまう。
ところがその後、明大学生会館でナゾの放火事件が起き、
同時に「明大生協」の争議に足場のないはずの狭間派が暴力的に介入してくる。
明大当局はこれ以降、警察とスクラムを組み「殺人学生集団」追放攻勢へと一挙に転じて、革労協内部の内ゲバを最大限利用し学内新左翼勢力の一掃にも成功する。
生協の解散→民間委託、強制ロックアウト、拠点の使用禁止、ガードマン導入入構者選別、学園祭中止・・・
など次々繰り出される攻撃的措置により、
活動拠点は奪われ、資金源となっていた生協・自治会費からの収入も断絶され、
事実上山茂派は「革労協にとっての金城湯池=明大」をこれで失ってしまい壊滅的な打撃を受ける。
(参考:早大・大経大における革マル派の拠点失陥)
11月14日、山茂派は、狭間派幹部安部利昭を襲撃。ハンマーなどで頭を殴られて殺される。(分裂後、3人目の死者)
(参考:1999年、滝口弘人が亡くなる。)
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★その2:「狭間派」と「労対派」の分裂~国鉄分割民営化闘争
■「狭間派」と「労対派」の分裂
1978年10月 目上委差別ビラ事件問題発生。
狭山事件を扱った映画「造花の判決」上映宣伝ビラの記載事項をめぐる問題。
差別批判を受けた当該ビラを作成した「目黒区上映委員会」=「目上委」の責任者は
革労協シンパで、
社青同中央は
「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を採択。これに乗じて、
党内で力をつけていた狭間嘉明らを中心とするグループが
滝口弘人・高見圭司らの労対グループと対立を強める。
1981年6月頃までに永井啓之 、狭間嘉明、けん(いわゆる「NHK」)らの 「狭間派」(学生の半分と労働者の一部)と、
滝口弘人、高見圭司ら他称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂。現代社を追われた滝口らの総務委員会反主流派グループは、正式な公然拠点を連帯社とし、狭間派らを「宗派グループ」と規定。
(参考:1999年に滝口弘人が、2001年に狭間嘉明が亡くなる。)
■永井グループ・西原グループの分裂~永井啓之の殺害
1980年9月15日 三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。狭間派は武装襲撃を繰り返し、拉致・監禁という事態も発生し、負傷者まで出した。
( 参考:1983~86年 「山谷争議団事件」 と 映画『山谷 やられたらやりかえせ』
1984年と1986年に、山谷地区で暗躍する暴力団(国粋会金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画「山谷(やま) やられたらやりかえせ」を製作した監督2名が、暴力団日本国粋会の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。)
1988年1月 前年に成田闘争の北原派から分離独立した小川派に同調した総務委員・永井啓之を中心とする永井グループが、狭間派から分裂。
1989年2月5日 永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害。
●永井啓之の殺害
1989年6月25日 内部粛清により永井啓之を埼玉県川口市の自宅から拉致し殺害、茨城県牛久市の県道隧道内で遺体が発見された。この事件で11月に狭間嘉明が殺人容疑で逮捕。
(1989年6月25日午前3時40分ごろ、埼玉県川口市差間で電話が不通になっていると、公衆電話から110番があった。
武南署員が駆けつけたところ、付近の電話線ケーブル3本が切断され、アパート2階に住む永井幹部がヘルメ
ット姿の7,8人の男に襲われワゴン車で連れ去られたことが分かった。
午前10時10分ごろ、約40キロ離れた牛久市東猯穴の学園西大通り下の市道トンネルで、ビニールシートに包
まれ寝袋に入った男性の遺体を通行人が発見。鈍器のようなもので全身をメッタ打ちにされ、顔も判別できない
ほどだったが、竜ケ崎署は指紋から永井幹部と断定した。
永井幹部は狭間派の中で狭間
最高幹部に次ぐ地位にあったが、大衆闘争も重視すべきだと主張したことなどから89年に除名され、独自の
機関紙を発行するなど分派活動を行っていた。
狭間派は事件の三日後に声明を発表し、「永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし放した」「マ
スコミ報道によると死亡した」と永井幹部を“査問”して死なせたことを認めた。
)
1989年11月7日 北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺。
1990年11月1日 東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、
寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。
1991年1月までに関西の西原学を中心とする西原グループが、狭間派から分裂。
■国鉄分割民営化闘争
松崎明氏(「元」革マル派副議長の「倉川篤」だったとされる人物)が率いていた動労は、
国鉄分割民営化の際に労使協調路線に転向して分割を推進しつつ国労解体にも手を貸した。
分割民営化前後の内ゲバ戦争では、JR労組関係者にも多くの犠牲者が出た。
その多くが動労系の組合幹部であり、革マル派の活動家と見なされ襲撃された。
革労協による襲撃事件:
1980年9月22日 小谷昌幸(重傷)動労中央本部 教宣部長
1987年10月30日 荒川一夫(重傷)旧動労活動家
1989年12月2日 田中豊徳(死亡)JR総連・総務部長(旧動労)
1993年8月27日 中村辰夫(死亡)JR貨物関連会社社員(旧動労)他1名重傷
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概況:
革労協(革命的労働者協会) は、日本の新左翼系過激派集団(社青同系)。
1999年5月の主流派と反主流派の分裂以降、熾烈な内ゲバ抗争を展開しており、
これまでに14件の襲撃事件で11人が死亡。
★その1:革労協成立~対革マル内ゲバの激化
■日本社会党系セクトの系譜
■社青同解放派について
もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設したが、戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派結成にいたる。
創始者は、滝口弘人(佐々木慶明)、指導者は中原一(笠原正義)、高見圭司、狭間嘉明ら。
機関紙誌は、『解放』(旧『革命』)。学生組織は、反帝学生評議会(反帝学評)。
1960年2月27日 日本社会党本部2階で社会主義青年同盟学生班協議会の結成が行なわれる。
東大に学士入学した滝口弘人が社青同東大学生班を結成(後に江田五月、横路孝弘も参加)。
■三派系全学連を形成
1965年7月 都学連をブントや中核派とともに再建。
1966年 全学連をブントや中核派とともに再建。
1967・68年当時、三派全学連の二代目の委員長は横国大生で中核派の秋山勝行がなった。その後、三派全学連は解体し、中核派全学連と社会党社青同解放派(人権派弁護士として高名な大口昭彦、ジャーナリスト大谷昭宏、テレビキャスターの久米宏は早大解放派であり、大口は第一次早大闘争の時の日共派も参加した早大全共闘議長であった。)、共産同(ブント)系の反帝全学連が指導権を並立する。
■革労協(革命的労働者協会)について
1969年9月 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)結成。
「10月11月決戦」 (佐藤訪米阻止に向けた一連の闘争)、生産性本部工業倶楽部、首相官邸、自民党本部、NHKに突入。
1970年 5月 社会党都本部占拠 ~6月 安保決戦 を経て、
社会党大会で、13名の除名(社青同大会で過激さが理由で除名処分となった。この除名処分は、社会党史では「社青同東京地本の解散」として扱われているという。)(以下YouTube参照)。
1971年5月30日 集会場で中核派系の全国部落研と衝突、以降組織全体で部落解放運動に関わる。
1971年6月 参議院選挙全国区に高見圭司が立候補14.6万票(次々点。1977年までに1人が任期途中で死亡したため、次点に繰り上げ)を獲得。選挙時のスローガンは「議会にゲリラを!」だった。
■対革マル内ゲバの激化
●全共闘運動期:
革マル派全学連は三派全学連設立の際にも参加することなく、
60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をたたき出して全学連の名称をもぎ取って、全学連を一貫して呼称していた。
1968年12月 革マル派が早大文連支配のため、解放派メンバーを襲撃。解放派は早大より追いだされる。さらには延長戦として、1月、東大闘争のさなか、駒場の解放派も襲撃する。
●「早大戦争」期:
1972年4月28日 大阪城公園で革マル派部隊が解放派を蹴散らす。革マル派学生木下君が死亡。
1972年11月8日 革マル派が早稲田大学で早大生川口君をリンチで殺害。早稲田解放闘争(所謂「早大戦争」)が始まる。WAC(早大行動委員会)が結成され、革マル派は次々と自治会執行部から罷免される。再度、早大支配をねらう革マル派は学生集会を襲撃し出すが、自衛武装を始めたWACに、解放派、ブント等が助太刀に駆けつけけ正面戦の対峙が続く。
1973年5~6月 早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕。
1973年9月14~15日 早大新学期を前にした深夜、革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊に4時間にわたり夜襲。解放派部隊が数十名入院となる一方、革マル派のレポ2人を殺害。この件で北條委員長、永井啓之が指名手配されてしまう。
1974年 革マル派が滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)。
報復として解放派は、革マル派全学連本部創造社に対して武装襲撃。
(参考:1975年3月14日 革マル派が中核派の本多延嘉書記長を暗殺。)
1975年6月24日 加藤登紀子の伊東の別荘で会議中、革マル派に襲撃され、九州大学生の石井真作が殺され、狭間嘉明が瀕死の重傷。
昭和50年6/24午前5時23分、静岡の伊東市宇佐美3226-100の緑の村別荘地にある加藤登紀子(31)の別荘で、泊まっていた10人が負傷、うち3人は鉄パイプで滅多打ちにされ、その中の1人が殺されているのを、別荘地の管理人(22)が発見した。午前4時40分には、10人ぐらいの男が血だらけの男を車で運ぶのを管理人は目撃していて、うち2人は黒いヘルメットをしていた事から、別荘の10人を襲ったのはこのグループではないかと思われた。別荘は電話線が切断され、6台あった車のタイヤがすべて空気が抜かれていた。加藤は昭和47年春にこの場所に土地を取得、木造2階建ての別荘を建てていた。昭和50年6/24は雑誌の取材で吉野せいを訪ねるため出かけており、加藤は午前12時35分に特急ひたち2号で平駅に着いたところを取材陣に囲まれた。加藤は朝のテレビを見た友人からけが人が出たという話は聞いていたが、死者が出た事は聞いておらず、驚いた様子。別荘にいた10人については、自分は知らないとした。夫の藤本敏夫(31)も10人については知らないとした。正午、革マル派の上位組織の解放社が「防衛のために反撃した」などと、加藤の別荘にいた10人は対立する社青同の解放派で、別荘で軍事訓練をしていたと声明を出した。さらに解放社は加藤がこの事を承知なら、加藤にも責任を取ってもらう、などと、加藤登紀子についても殺害をほのめかすような声明を出した。殺害されたのは反帝学評系の元九大生の石井真作(26)だった。6/25午後、飯田橋のホテルグランドパレスで加藤と藤本が記者会見を行い、別荘は当日、加藤の姉の夫が友人の木村という男に貸していたと発表、木村が10人に貸したのか、さらに別な誰かにまた貸ししたのかはわからない、とした。また藤本が活動していた社学同の反帝全学連について、別荘で襲われた10人が属していた革労協の反帝学評とはまったく交流はない、とした。
報復としてこの後、10月8日に立正大で秋本君を、それから三週間後の27日に東大で梅田君をそれぞれ殺害。(秋本君は石井真作さん襲撃の実行犯の一人と
思われ、学内で情宣中に革労協の活動家6人に
頭を滅多打ちにされた上、火炎瓶を投擲され死亡。)
■組織の変質:中原一(笠原正義)の殺害~ヨーロッパ問題
●中原一(笠原正義)の殺害:
1977年2月11日 最高指導者・中原一(笠原正義)が革マル派に殺害される(茨城県取手市の国鉄常磐線取手駅西口前付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。)
●「いわゆるヨーロッパ問題」(組織原則をめぐる問題~「狭間派」・「労対派」分裂の遠因・「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線):
解放派は本来、ローザ・ルクセンブルク主義の立場に立ち、レーニン主義的・ボルシェヴィキ的な前衛党による、外部注入的な大衆指導路線を批判する姿勢であった。
このため、69年の革労協結成をめぐっては、社会党都本部の三分の一を占めた反戦派の内、革労協に参加しなかった部分である社会党内分派「革同」(社会党革命同志会)との分岐の問題があった。
(これは、ドイツ革命期における、早期の独自新党結成か、ぎりぎりまで社民内分派闘争路線を追及するか、と同様の問題である。)
このような革労協と社青同の関係整理 - 「独自新党結成=革労協(解放派)か、分派闘争路線=革労協("社会党・社青同"解放派)か」 -
という組織問題を積み残したまま、中原の殺害が発生する。
対革マル戦の激化をうけて、狭間嘉明の軍事主義への押さえが弱まってしまう中で、
滝口ら後の「労対派」が、解放派本来のレーニン主義批判の立場を堅持するのに対し、学生組織・戦闘組織に影響力を持つ「狭間派」は対革マル戦のため組織性を強化する必要があるとの理由で、
レーニン主義に屈服してしまう。
両派の組織原則の相違が「狭間派」・「労対派」分裂の遠因になるとともに、「革マルのスパイ」の潜入の可能性をめぐって党内に疑心暗鬼が惹起され、以後の「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線にもなる。
革マル派に対して全面戦争宣言「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」。
1977年4月15日 革マル派幹部藤原隆義他4名が乗車した印刷局のワゴン車を前後から車で挟み撃ちにして攻撃。攻撃の衝撃でドアを中から開けることが出来なかったのか、積荷のインクが引火したため4人は焼死。(77年中に計7人の革マル派活動家を殺害。)
(参考:1996年5月14日 国学院大多摩プラーザ校舎で、狭間派が革マル派の早大学対メンバー五十嵐を襲撃し殺害。革共同両派( = 革マル派・中核派)の「手打ち」を噂していた人たちが「青( = 革労協)が介入したね」
と論評。)
革労協による対革マル派の死亡者は23名にのぼる。
解放派が1981年に発行したパンフレット
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