カテゴリー「革労協 ( 革命的労働者協会 社青同 解放派 ) 」の記事

2010年5月18日 (火)

55本のビデオで見る55年体制下の日本

55本のビデオで見る55年体制下の日本

55 videos for Japan under the 55-year system



here are the vids

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2006年11月15日 (水)

革労協(革命的労働者協会) - その4

★その4:「刺殺ゲバ」への深化

■「刺殺ゲバ」への深化

2000年

2月8日 福岡の赤砦社が狭間派のゲバ部隊に襲われ、福井大生だった片岡知和が殺害される。(分裂後、4人目の死者)

2月9日 早朝、神奈川県真鶴の熱海駅で、前日の狭間派の襲撃キャップとサブの女性が、 出刃包丁で武装した山茂派の追っ手によって、衆人環視のなかメッタ刺しされ死傷。
( 男性幹部のキャップ柿沼忠氏は逃れ出た駅のホームで絶命。同行の女性幹部も電車内で血の海に沈み失血死寸前。)(分裂後、5人目の死者)

8月30日 朝の通勤ラッシュで混み合う鶯谷駅東口を降り立った「山茂派の女性メンバーリーダー」格、 明大生協従業員組合書記長片山美恵子氏が、狭間派部隊に襲われ男たちの手にする刃物で小柄な全身17ヶ所をメッタ刺しにされ、即死。 (致命傷となったのは肋骨に逆らわないよう、刃を横にして彼女の心臓にまで達するよう出刃を突き立てたものだったと報じられた。)(分裂後、6人目の死者)

12月10日 山茂派は『片山殺害への報復』として、狭間派古参現役労組構成員・仲野茂樹を殺害。(分裂後、7人目の死者)


2001年

2月16日 相模原にある山茂派活動家宅前で、狭間派の襲撃部隊4名全員が凶器車輛もろとも、待ち伏せしていた公安私服部隊により一網打尽に遭う。(後日、殺人予備で起訴される。)

5月16日、千葉県八街市で、狭間派幹部の矢野義孝が襲われ脳挫傷で死亡。矢野氏は三里塚を活動拠点に県内では最高幹部の一人だった。(分裂後、8人目の死者)

8月7日 山茂派「革命軍」は、文京区本郷の「新しい歴史教科書をつくる会」事務所に放火。

12月8日 狭間嘉明最高幹部が川崎市内の病院で病死(肝臓ガン、享年55歳)。


2004年

2月17日 山茂派「革命軍」は、自衛隊イラク派兵への抗議として、新宿の防衛庁を狙った爆弾ゲリラ事件を起こす。 (防衛庁から800メートル離れた瑞光寺の墓地から迫撃弾の発射装置とみられる筒2本が見つかった。)

6月2日 早朝、狭間派テロ部隊は、東京三ノ輪(山茂派の拠点となっている山谷から至近)のマンションにある山茂派アジトを出てきた3名のメンバーを待ち伏せ攻撃。 通学の小学生の前でナイフやハンマーなどによる襲撃で、逃げ遅れた小山(高山)元全学連副委員長とその防衛役五十嵐(武本)氏の2名が出血多量などで即死。(分裂後、9~10人目の死者)


2006年

3月28 赤砦社内で山茂派幹部・岸本修氏が亡くなる(全身に皮下出血)という事態が発生。 山茂派は「肉体的精神的疲労が蓄積し急激な入浴ゆえに肉体的変調をきたした、心臓麻痺が死因」と発表。
しかし狭間派・警察は「山茂派内での内々ゲバによる傷害致死」容疑の見解(分裂後、11人目の死者)

尚、故 狭間氏の潜行を助け、何年にもわたり最期は川崎の病院で『愛人 狭間の死』を看取り、 現在も逃亡・指名手配中である狭間派の女性活動家・岸本美穂は、この岸本修氏の元妻でもあった。




(参考:6月26日 革マル派最高指導者の黒田寛一が埼玉県内の病院にて肝不全のため死亡。)



8月15日 山茂派はマイクロバスで靖国神社に街宣(以下YouTube参照)。

●現下の内ゲバで特徴的なのは「小型の出刃包丁」が主要な凶器として登場しており、コンパクトな代わりに必殺の攻撃力も望めるらしく、 警察が職質をかけたら、両派とも「防衛用」に携帯していた・・・カドでの「未然の逮捕例」がいくつもある。


更新履歴

11月7日 警視庁宿署は新宿区内の路上でカッターナイフ(刃渡り7.1センチ)を所持していたとして 狭間派活動家、三村元是容疑者を同法違反容疑で現行犯逮捕。

11月14日 警視庁公安部は 狭間派の拠点「現代社」に、銃刀法違反容疑で家宅捜索。(video参照)


2007年

2月12日
午後11時ごろ、神奈川県座間市入谷3丁目の県立座間谷戸山公園で、近所の住民から「バンという爆発音が2回し、付近が燃えている」と110番通報があった。けが人はなかった。 座間署の調べでは、現場から鉄パイプ2本がみつかり、周辺の落ち葉が燃えていた。現場から北西約1キロには米陸軍キャンプ座間があることから、同キャンプを狙って何らかを発射したゲリラ事件とみて調べている。 谷戸山公園では2002年11月にも、キャンプ座間を狙ったゲリラ事件が起きている。(video参照)

※尚、座間爆発音は「アルカイダか」と米マスコミは報道
米ABCテレビは12日、パキスタン情報筋の話として、日本国内で国際テロ組織アルカイダと関係の深いパキスタン人武装組織のネットワーク化が進んでいると報道、神奈川県の在日米陸軍キャンプ座間近くで同日起きた爆発音について、このグループが関与した可能性に触れた。報道は、武装組織と爆発との直接的な関連については伝えていない。
報道によると、武装組織は、アルカイダのナンバー3だったハリド・シェイク・モハメド被告=米国が拘束中=らの直接的な指示に従い1999年ごろから構築された。普段は一般人と変わらない生活を送り、いざとなると行動する「潜伏細胞」の組織化のため、20人以上のパキスタン人が90年代後半、学生の身分の査証(ビザ)で日本に送り込まれたという。
組織は、日韓が共催した2002年サッカー・ワールドカップ(W杯)でのスタジアム爆破を計画。結果的に実行されなかったが、情報筋はモハメド被告が日本国内でのテロ計画に「深い関心」があったとし、組織が現在も「日本国内の米国や西側の標的に対する攻撃」を計画しているとみているとした。

2月15日
迫撃弾装置:キャンプ座間で飛しょう弾発見 神奈川
神奈川県座間市の在日米陸軍基地「キャンプ座間」近くで迫撃弾の発射装置とみられる鉄パイプなどが見つかった事件で、県警座間署は15日、発射されたとみられる飛しょう弾を同基地内で発見した。
調べでは、飛しょう弾は長さ約36センチ、最大径約55ミリの円すい形。基地南側の第6ゲートから200メートルの芝生に刺さっていた。鉄パイプなどの発見場所からは約430メートル。爆発した跡はなかった。弾の中に爆発物が入っていないか鑑定する。同県警は火炎びん処罰法違反などの容疑で捜査している。

2月15日
映画『山谷 やられたらやりかえせ』の監督・佐藤満夫(84年12月殺害)と、映画の主題となった山谷争議団の幹部・山岡強一(86年1月殺害)の2名の殺害を実行した暴力団国粋会の、当時からの組長工藤和義が拳銃自殺
(参考:「山谷争議団事件」映画『山谷 やられたらやりかえせ』革労協 - その2)
15日午前9時20分ごろ、東京都台東区橋場、指定暴力団山口組国粋会の工藤和義会長(70)宅の2階居間で、工藤会長が頭から血を流して死亡しているのを訪れた組関係者が発見し、警視庁浅草署に届け出た。近くに拳銃があったことから、同庁では、工藤会長が拳銃で頭を撃ち抜き、自殺を図ったとみている。国粋会は、港区で2月5日、指定暴力団住吉会小林会幹部が射殺された事件に関与していたとみられ、同庁では、自殺と射殺事件との関連を調べている。
工藤会長は国粋会が2005年9月に山口組の傘下団体となった際、山口組の最高顧問に就任していた。
港区西麻布で2月5日、住吉会小林会幹部が射殺された事件の背景には、六本木など都内の繁華街の「縄張り」を巡る小林会と国粋会のトラブルがあったとされ、同8日、住吉会と山口組双方の最高幹部による話し合いが行われ、和解した。関係者によると、この場で、山口組の最高幹部が射殺事件への国粋会の関与を認めたとされ、工藤会長の責任を問う声が上がっていたという。


2月17日
キャンプ座間飛しょう弾発射装置事件:過激派が犯行声明 

神奈川県座間市の在日米軍基地「キャンプ座間」近くで、金属弾の発射装置とみられる鉄パイプが見つかるなどした事件で、革命軍を名乗る犯行声明が17日、東京都内の複数の報道機関に郵送された。神奈川県警は、過激派の革労協反主流派の声明とみている。 声明文は「米陸軍司令中枢のキャンプ座間移転を許さない」などと主張し、ブッシュ米大統領のイラクへの米軍の増派やキャンプ座間移転などに対する革命的ゲリラ攻撃などとしている。 2002年11月にもキャンプ座間へ向け金属弾2発が発射され、革命軍と名乗る犯行声明が届いた。 今回の声明は「(02年事件の)歴史的継承」とし「新型迫撃弾」を使ったとしている。 警察当局は、従来の金属弾でなく、起爆装置を使った火薬などを詰めた飛行弾とみて鑑定作業を進めている。


赤砦社「解放」掲載の軍報
革 命 軍
在日米陸軍司令部「キャンプ座間」基地に 革命的新型迫撃弾攻撃を遂行 
2・12 革命軍より軍報が寄せられたので、これを公表する。
軍 報  
わが革命軍は、二月十二日、午後十一時二分、神奈川県相模原市と座間市にまたがって、 広大に占領された、在日米陸軍司令部・「キャンプ座間」基地に対して、日米基地警備 隊・警察治安部隊の重包囲網を突破し、二門の革命的新型迫撃弾攻撃を敢行、在日米軍中 枢機能を徹底破壊-壊滅的打撃を強制した。  
本戦闘は、二〇〇二年十一・一八戦闘の歴史的継承と、新たに開発した新型迫撃弾によ る革命的健軍武装闘争の勝利を力に戦取したのだ。  
この闘いは、「反米飯占領」のイラク内戦下、米帝・ブッシュによる米軍二万増派をも っての悪無限的「掃討作戦」=イラク労働者人民大量虐殺に対する断固たる怒りの鉄槌で ある。  
同時に、殺戮の元凶たる米陸軍司令部中枢=米陸軍第一軍団改編親司令部の「キャンプ 座間」移転と、陸自・中央相応集団司令部の座間基地への新設を通した、朝鮮反革命戦争 -国際反革命戦争にむけた日米軍統合指揮センター確立を絶対許さぬ、革命的ゲリラ攻撃 である。  
また、「イラク新政策」=イラクでの戦争拡大と、在日米軍再編を通した日米反革命階 級同盟の強化を下げ部、ブッシュの盟友副大統領・チェイニーの二・二〇来日を実力で阻 止する先制攻撃である。  
わが革命軍は、「戦後レジームからの脱却」を標榜し、侵略戦争を美化する安倍連合政 府の総力をあげた「対テロ」組織壊滅型反革命弾圧をはねのけ、朝鮮反革命戦争にむけた 改憲攻撃=戦時体制形成を革命的武装闘争の大爆発で打ち破り、プロレタリア世界革命- 共産主義の勝利を生死を賭して闘いとる。
二〇〇七年二月十二日          革 命 軍


10月31日
革労協反主流派拠点を家宅捜索 介護報酬詐欺
身体障害者の介護を装い介護報酬を不正に受け取っていたとして、警視庁公安部は30日、詐欺の疑いで、革労協反主流派の拠点「赤砦社」(東京都台東区)や、居宅介護支援事業所を開設していた反主流派構成員の自宅など4カ所を家宅捜索した。
調べでは、反主流派の構成員数人が平成15年、足立区内に同区が指定する居宅介護支援事業所を開設。15年5月から18年2月の間、実際には介護をしていないのに、同じ構成員の障害者の介護を装い、勤務実態などの書類を偽造し、介護報酬を不正に受け取っていた疑い。
受給額は数千万円にのぼるとみられ、一部は組織の活動資金に流用していたとみて捜査する。




2008年

9月12日
12日午後10時半ごろ、横須賀市汐入町の山林で、「爆発音が2回して火のようなものがみえた」と110番通報があった。近くには米軍横須賀基地や海上自衛隊横須賀基地があり、神奈川県警は、過激派による基地を狙ったゲリラ事件とみて捜査している。
 横須賀署などによると、現場にリード線や乾電池などが残っていた。現場には飛しょう弾2発が発射された形跡があり、発射台とみられる鉄パイプも見つかった。周辺住民に被害はなかったが、横須賀市消防局によると、付近の家のベランダの一部に損壊した跡があり、着弾とみて調べる。
 横須賀市はこの日、外務省から原子力空母ジョージ・ワシントンが今月25日に入港するとの連絡を受けていた。県警は空母入港に反対する過激派の犯行の可能性もあるとみて調べている。

9月17日
 米海軍横須賀基地を狙ったとみられる飛行弾発射事件で、産経新聞東京本社あてに17日、革命軍を名乗る組織から犯行声明文が届いた。
 声明文は12日付で、「原子力空母『ジョージ・ワシントン』の配備を実力で阻止するゲリラ攻撃の第一弾」、「空母の配備は、日米同盟の強化をテコに戦争を拡大させるものだ」などとしている。
 神奈川県警は声明文の内容から革労協反主流派が出したとみて捜査している。
 革労協反主流派は昨年二月に在日米陸軍キャンプ座間(座間、相模原市)に向けて飛行弾が発射された事件でも犯行声明を出している。





現在、指名手配されている革労協のメンバー:
外園悦夫(凶器準備集合罪)
田中優(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
森永美佐枝(凶器準備集合罪・銃刀法違反)
後藤あざみ(凶器準備集合罪)
岸本美穂(有印私文書偽造)

参照元LINK:
Wikipedia - 日本社会党
Wikipedia - 社青同
Wikipedia - 社青同解放派
Wikipedia - 革労協狭間派
Wikipedia - 革労協山茂派
Wikipedia - ブント
Wikipedia - 革マル派
Wikipedia - 中核派
Wikipedia - 全学連
Wikipedia - 全共闘
Wikipedia - 東大紛争
Wikipedia - 三里塚
Wikipedia - 狭山事件
Wikipedia - 全国部落解放青年同盟
Wikipedia - 山谷─やられたらやりかえせ
解放派関連リンク集
社青同解放派内「内ゲバ」事件について
全学連・誕生の歴史
全学連の“教祖”たち(滝口弘人ほかのインタヴュー)
所謂「革命軍 軍報」
明治大学生協労働組合、明大生協労組のホームページ
青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力(革マル派機関紙「解放」より)
がんばるな!?新左翼
「検証 内ゲバ」(社会批評社)
「月刊治安フォーラム」(立花書房)
YouTube tag:"革労協"
山梨県警による資料(pdfファイル)

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革労協(革命的労働者協会) - その3

★その3:「現代社派」と「赤砦社派」の分裂=所謂、革労協「主流派」・「反主流派」の分裂

●「ゴスペル闘争」
反共主義・ファンダメンタリズムなどを掲げる「明大ゴスペル愛好会」
(ゴスペル研究会、ヨハン早稲田キリスト教会系列)との闘争が激化。

1998年10月18日 東京都新宿区戸山二丁目、同教会牧師の金圭東を襲撃。

1999年5月 闘争をやめて事態の鎮静化を図る穏健派である総務委員会内少数派の赤砦社派」(反主流派、明治大学系、山茂派、木元派)と、徹底抗戦を主張する強硬派で多数派の現代社派」(主流派、狭間派、千木良派)が対立~分裂へ。

●所謂、革労協「主流派」・「反主流派」について
主流派:
指導者 - 狭間嘉明
俗称 - 狭間派、千木良派、現代社派 = 「主流派」
拠点 - 「現代社」(杉並区高井戸)

反主流派:
指導者 - 山田茂樹
俗称 - 山茂派、木元派、赤砦社派 = 「反主流派」
拠点 - 「赤砦社」(台東区下谷)


■「全面戦争」を宣言~「明大戦争」~「明大失陥」

1999年

6月4日 狭間派のテロ部隊が山田茂樹に「死を狙った襲撃」をかけ、瀕死の重傷 (右上腕部骨折、左右大腿骨”開放”骨折、全身打撲で全治10ヶ月)を負わせる。

6月8日 山茂派が襲撃に備え明大学内サークル室などに搬入していた伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類をタネに警察が入り、 中心メンバー17名が凶準で逮捕。

6月12日 明大駿河台の学生部隊(=山茂派)に向け、狭間派は「私服部隊で武装潜入」をかけ 明大学生会館内の革労協各拠点の奪還を図る。(襲撃開始寸前未遂。)

6月13日 山茂派は『6・13軍声明』として、明確に狭間派に対し事実上の「全面戦争」を宣言。

7月2日 山茂派は狭間派の「明大生協理事」となっていた(キャップ古参)荻野氏(長田佳比古)を襲撃し殺害。
(松戸市で出勤中のバイクを倒され、側頭部へのハンマー連打を浴びその場で絶命。)(分裂後、1人目の死者)

7月21日 狭間派は7・2の報復として山茂派の同生協職員・中山(相川一郎)を殺害し反撃。(分裂後、2人目の死者)

7月22日 狭間派は明大生田キャンパスに再度、全国動員公然ゲバ部隊を差し向け、 構内の山茂派に白昼の襲撃。だが山茂派部隊はいち早く大学の退去命令に従い”逃走”、 狭間派のトラの子37名は、凶準と建侵で構内に入った全員が検挙・起訴され壊滅的打撃を受ける。

この大量逮捕がたたり、拠点の明治大各キャンパスはじめ山谷や福岡、九州大など「同派のシンボル」から 狭間派が一掃され、革労協の拠点は三里塚現闘以外、山茂派一色に塗り替えられてしまう。
ところがその後、明大学生会館でナゾの放火事件が起き、
同時に「明大生協」の争議に足場のないはずの狭間派が暴力的に介入してくる。

明大当局はこれ以降、警察とスクラムを組み「殺人学生集団」追放攻勢へと一挙に転じて、革労協内部の内ゲバを最大限利用し学内新左翼勢力の一掃にも成功する。
生協の解散→民間委託、強制ロックアウト、拠点の使用禁止、ガードマン導入入構者選別、学園祭中止・・・
など次々繰り出される攻撃的措置により、 活動拠点は奪われ、資金源となっていた生協・自治会費からの収入も断絶され
事実上山茂派は「革労協にとっての金城湯池=明大」をこれで失ってしまい壊滅的な打撃を受ける。

(参考:早大・大経大における革マル派の拠点失陥)

11月14日、山茂派は、狭間派幹部安部利昭を襲撃。ハンマーなどで頭を殴られて殺される。(分裂後、3人目の死者)

(参考:1999年、滝口弘人が亡くなる。)


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革労協(革命的労働者協会) - その2

★その2:「狭間派」と「労対派」の分裂~国鉄分割民営化闘争

■「狭間派」と「労対派」の分裂
1978年10月 目上委差別ビラ事件問題発生。
狭山事件を扱った映画「造花の判決」上映宣伝ビラの記載事項をめぐる問題。
差別批判を受けた当該ビラを作成した「目黒区上映委員会」=「目上委」の責任者は 革労協シンパで、
社青同中央は 「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を採択。これに乗じて、 党内で力をつけていた狭間嘉明らを中心とするグループが 滝口弘人・高見圭司らの労対グループと対立を強める。

1981年6月頃までに永井啓之 、狭間嘉明、けん(いわゆる「NHK」)らの 「狭間派」(学生の半分と労働者の一部)と、
滝口弘人、高見圭司ら他称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂。現代社を追われた滝口らの総務委員会反主流派グループは、正式な公然拠点を連帯社とし、狭間派らを「宗派グループ」と規定。

(参考:1999年に滝口弘人が、2001年に狭間嘉明が亡くなる。)

■永井グループ・西原グループの分裂~永井啓之の殺害
1980年9月15日 三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。狭間派は武装襲撃を繰り返し、拉致・監禁という事態も発生し、負傷者まで出した。

( 参考:1983~86年 「山谷争議団事件」 と 映画『山谷 やられたらやりかえせ』
1984年と1986年に、山谷地区で暗躍する暴力団(国粋会金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画「山谷(やま) やられたらやりかえせ」を製作した監督2名が、暴力団日本国粋会の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。)

1988年1月 前年に成田闘争の北原派から分離独立した小川派に同調した総務委員・永井啓之を中心とする永井グループが、狭間派から分裂。

1989年2月5日 永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害。

●永井啓之の殺害
1989年6月25日 内部粛清により永井啓之を埼玉県川口市の自宅から拉致し殺害、茨城県牛久市の県道隧道内で遺体が発見された。この事件で11月に狭間嘉明が殺人容疑で逮捕。
(1989年6月25日午前3時40分ごろ、埼玉県川口市差間で電話が不通になっていると、公衆電話から110番があった。
武南署員が駆けつけたところ、付近の電話線ケーブル3本が切断され、アパート2階に住む永井幹部がヘルメ ット姿の7,8人の男に襲われワゴン車で連れ去られたことが分かった。
午前10時10分ごろ、約40キロ離れた牛久市東猯穴の学園西大通り下の市道トンネルで、ビニールシートに包 まれ寝袋に入った男性の遺体を通行人が発見。鈍器のようなもので全身をメッタ打ちにされ、顔も判別できない ほどだったが、竜ケ崎署は指紋から永井幹部と断定した。
永井幹部は狭間派の中で狭間 最高幹部に次ぐ地位にあったが、大衆闘争も重視すべきだと主張したことなどから89年に除名され、独自の 機関紙を発行するなど分派活動を行っていた。
狭間派は事件の三日後に声明を発表し、「永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし放した」「マ スコミ報道によると死亡した」と永井幹部を“査問”して死なせたことを認めた。 )

1989年11月7日 北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺。

1990年11月1日 東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、 寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。

1991年1月までに関西の西原学を中心とする西原グループが、狭間派から分裂。


■国鉄分割民営化闘争
松崎明氏(「元」革マル派副議長の「倉川篤」だったとされる人物)が率いていた動労は、 国鉄分割民営化の際に労使協調路線に転向して分割を推進しつつ国労解体にも手を貸した。
分割民営化前後の内ゲバ戦争では、JR労組関係者にも多くの犠牲者が出た。 その多くが動労系の組合幹部であり、革マル派の活動家と見なされ襲撃された。

革労協による襲撃事件:
1980年9月22日 小谷昌幸(重傷)動労中央本部 教宣部長
1987年10月30日 荒川一夫(重傷)旧動労活動家
1989年12月2日 田中豊徳(死亡)JR総連・総務部長(旧動労)
1993年8月27日 中村辰夫(死亡)JR貨物関連会社社員(旧動労)他1名重傷

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革労協(革命的労働者協会) - その1

概況:
革労協(革命的労働者協会) は、日本の新左翼系過激派集団(社青同系)。
1999年5月の主流派と反主流派の分裂以降、熾烈な内ゲバ抗争を展開しており、 これまでに14件の襲撃事件で11人が死亡。


★その1:革労協成立~対革マル内ゲバの激化

日本社会党系セクトの系譜


■社青同解放派について
もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設したが、戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派結成にいたる。 創始者は、滝口弘人(佐々木慶明)、指導者は中原一(笠原正義)、高見圭司、狭間嘉明ら。
機関紙誌は、『解放』(旧『革命』)。学生組織は、反帝学生評議会(反帝学評)
1960年2月27日 日本社会党本部2階で社会主義青年同盟学生班協議会の結成が行なわれる。
東大に学士入学した滝口弘人が社青同東大学生班を結成(後に江田五月横路孝弘も参加)。

■三派系全学連を形成
1965年7月 都学連をブントや中核派とともに再建。
1966年 全学連をブントや中核派とともに再建。

1967・68年当時、三派全学連の二代目の委員長は横国大生で中核派秋山勝行がなった。その後、三派全学連は解体し、中核派全学連と社会党社青同解放派(人権派弁護士として高名な大口昭彦、ジャーナリスト大谷昭宏、テレビキャスターの久米宏早大解放派であり、大口は第一次早大闘争の時の日共派も参加した早大全共闘議長であった。)、共産同(ブント)系の反帝全学連が指導権を並立する。

■革労協(革命的労働者協会)について
1969年9月 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)結成。

「10月11月決戦」 (佐藤訪米阻止に向けた一連の闘争)、生産性本部工業倶楽部、首相官邸、自民党本部、NHKに突入。

1970年 5月 社会党都本部占拠 ~6月 安保決戦 を経て、 社会党大会で、13名の除名(社青同大会で過激さが理由で除名処分となった。この除名処分は、社会党史では「社青同東京地本の解散」として扱われているという。)(以下YouTube参照)。

1971年5月30日 集会場で中核派系の全国部落研と衝突、以降組織全体で部落解放運動に関わる。

1971年6月 参議院選挙全国区に高見圭司が立候補14.6万票(次々点。1977年までに1人が任期途中で死亡したため、次点に繰り上げ)を獲得。選挙時のスローガンは「議会にゲリラを!」だった。

■対革マル内ゲバの激化
全共闘運動期:
革マル派全学連は三派全学連設立の際にも参加することなく、
60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をたたき出して全学連の名称をもぎ取って、全学連を一貫して呼称していた。
1968年12月 革マル派が早大文連支配のため、解放派メンバーを襲撃。解放派は早大より追いだされる。さらには延長戦として、1月、東大闘争のさなか、駒場の解放派も襲撃する。

●「早大戦争」期:

1972年4月28日 大阪城公園で革マル派部隊が解放派を蹴散らす。革マル派学生木下君が死亡。

1972年11月8日 革マル派が早稲田大学で早大生川口君をリンチで殺害。早稲田解放闘争(所謂「早大戦争」)が始まる。WAC(早大行動委員会)が結成され、革マル派は次々と自治会執行部から罷免される。再度、早大支配をねらう革マル派は学生集会を襲撃し出すが、自衛武装を始めたWACに、解放派、ブント等が助太刀に駆けつけけ正面戦の対峙が続く。

1973年5~6月 早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕。

1973年9月14~15日 早大新学期を前にした深夜、革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊に4時間にわたり夜襲。解放派部隊が数十名入院となる一方、革マル派のレポ2人を殺害。この件で北條委員長、永井啓之が指名手配されてしまう。

1974年 革マル派が滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)。
報復として解放派は、革マル派全学連本部創造社に対して武装襲撃。

(参考:1975年3月14日 革マル派が中核派本多延嘉書記長を暗殺。)

1975年6月24日 加藤登紀子の伊東の別荘で会議中、革マル派に襲撃され、九州大学生の石井真作が殺され、狭間嘉明が瀕死の重傷
昭和50年6/24午前5時23分、静岡の伊東市宇佐美3226-100の緑の村別荘地にある加藤登紀子(31)の別荘で、泊まっていた10人が負傷、うち3人は鉄パイプで滅多打ちにされ、その中の1人が殺されているのを、別荘地の管理人(22)が発見した。午前4時40分には、10人ぐらいの男が血だらけの男を車で運ぶのを管理人は目撃していて、うち2人は黒いヘルメットをしていた事から、別荘の10人を襲ったのはこのグループではないかと思われた。別荘は電話線が切断され、6台あった車のタイヤがすべて空気が抜かれていた。加藤は昭和47年春にこの場所に土地を取得、木造2階建ての別荘を建てていた。昭和50年6/24は雑誌の取材で吉野せいを訪ねるため出かけており、加藤は午前12時35分に特急ひたち2号で平駅に着いたところを取材陣に囲まれた。加藤は朝のテレビを見た友人からけが人が出たという話は聞いていたが、死者が出た事は聞いておらず、驚いた様子。別荘にいた10人については、自分は知らないとした。夫の藤本敏夫(31)も10人については知らないとした。正午、革マル派の上位組織の解放社が「防衛のために反撃した」などと、加藤の別荘にいた10人は対立する社青同の解放派で、別荘で軍事訓練をしていたと声明を出した。さらに解放社は加藤がこの事を承知なら、加藤にも責任を取ってもらう、などと、加藤登紀子についても殺害をほのめかすような声明を出した。殺害されたのは反帝学評系の元九大生の石井真作(26)だった。6/25午後、飯田橋のホテルグランドパレスで加藤と藤本が記者会見を行い、別荘は当日、加藤の姉の夫が友人の木村という男に貸していたと発表、木村が10人に貸したのか、さらに別な誰かにまた貸ししたのかはわからない、とした。また藤本が活動していた社学同の反帝全学連について、別荘で襲われた10人が属していた革労協の反帝学評とはまったく交流はない、とした。

報復としてこの後、10月8日に立正大で秋本君を、それから三週間後の27日に東大で梅田君をそれぞれ殺害。(秋本君は石井真作さん襲撃の実行犯の一人と 思われ、学内で情宣中に革労協の活動家6人に 頭を滅多打ちにされた上、火炎瓶を投擲され死亡。)

■組織の変質:中原一(笠原正義)の殺害~ヨーロッパ問題
●中原一(笠原正義)の殺害:
1977年2月11日 最高指導者・中原一(笠原正義)が革マル派に殺害される(茨城県取手市の国鉄常磐線取手駅西口前付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。)

●「いわゆるヨーロッパ問題」(組織原則をめぐる問題~「狭間派」・「労対派」分裂の遠因・「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線):
解放派は本来、ローザ・ルクセンブルク主義の立場に立ち、レーニン主義的・ボルシェヴィキ的な前衛党による、外部注入的な大衆指導路線を批判する姿勢であった。
このため、69年の革労協結成をめぐっては、社会党都本部の三分の一を占めた反戦派の内、革労協に参加しなかった部分である社会党内分派「革同」(社会党革命同志会)との分岐の問題があった。
(これは、ドイツ革命期における、早期の独自新党結成か、ぎりぎりまで社民内分派闘争路線を追及するか、と同様の問題である。)
このような革労協と社青同の関係整理 - 「独自新党結成=革労協(解放派)か、分派闘争路線=革労協("社会党・社青同"解放派)か」 - という組織問題を積み残したまま、中原の殺害が発生する。
対革マル戦の激化をうけて、狭間嘉明の軍事主義への押さえが弱まってしまう中で、 滝口ら後の「労対派」が、解放派本来のレーニン主義批判の立場を堅持するのに対し、学生組織・戦闘組織に影響力を持つ「狭間派」は対革マル戦のため組織性を強化する必要があるとの理由で、 レーニン主義に屈服してしまう。
両派の組織原則の相違が「狭間派」・「労対派」分裂の遠因になるとともに、「革マルのスパイ」の潜入の可能性をめぐって党内に疑心暗鬼が惹起され、以後の「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線にもなる。

革マル派に対して全面戦争宣言「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」。

1977年4月15日 革マル派幹部藤原隆義他4名が乗車した印刷局のワゴン車を前後から車で挟み撃ちにして攻撃。攻撃の衝撃でドアを中から開けることが出来なかったのか、積荷のインクが引火したため4人は焼死。(77年中に計7人の革マル派活動家を殺害。)

(参考:1996年5月14日 国学院大多摩プラーザ校舎で、狭間派が革マル派の早大学対メンバー五十嵐を襲撃し殺害。革共同両派( = 革マル派・中核派)の「手打ち」を噂していた人たちが「青( = 革労協)が介入したね」 と論評。)

革労協による対革マル派の死亡者は23名にのぼる。
解放派が1981年に発行したパンフレット

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