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2008年11月に作成された記事

2008年11月22日 (土)

渡辺はま子 モンテンルパの夜は更けて

渡辺はま子
(1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)





慰問歌手
渡辺はま子(わたなべはまこ、1910年(明治43年)10月27日 - 1999年(平成11年)12月31日)は戦前か ら戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市出身。本名加藤浜子。生涯横浜で過ごした。愛 称は「おはまさん」。横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡辺は美貌で知られた歌手であった 。祖父がアメリカ人でクオーターであった。

昭和8年(1933年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業。卒業後は、横浜高等女学校(後の 横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが、昭和10年の秋には教職を辞し、渡辺はビクターの流行歌手 に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラ ジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡辺は終生を通じ、ハンセ ン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。

昭和12年(1937年)4月コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国 の花」が渡辺にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も 積極的に行うようになり、「シナの夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人 々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのた め、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った名曲「何日君再来」も渡辺が唄い、レコードが日本で発売され ることになった。

さらに当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビア から国内で日本語で発売する際には、渡辺がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といっ た曲は渡辺、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。

戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされ る。が、その間も渡辺はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国 後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病に失う不幸に見舞われた。

モンテンルパの夜は更けて ( 誰か昭和を想わざる より)
ここに一つの歌がある。「ああモンテンルパの夜は更けて」、昭和27年のヒット曲である。懐かしい針音 の前奏に出だしの1番は宇都美清という男性歌手のソフトな歌唱、2番を渡辺はま子が歌っている。哀切 極まりないメロディのこの曲はモンテンルパの獄中で、死刑判決を受けていた代田銀太郎が作詞、伊藤正 康が作曲したもので、同年の6月に譜面が渡辺はま子の元に送られてきた。同月には渡辺はま子自身の持 ち込みでビクターでレコード吹き込み、スター歌手の流行歌の持つ力は馬鹿にならない、それまでも復員 局の植木信良が受刑者減刑に打ち込んできていたが一個人の力には限界がある、渡辺はま子の「ああモン テンルパの夜は更けて」はすでに戦争の記憶が遠くなりかけていた日本人に大変な反響を巻き起こしたの だった。

そこで渡辺はま子はある決断を下す。それは現地のモンテンルパを渡辺はま子自身が訪れ、受刑者たち を直接、慰問する事だった。しかしフィリピン政府のビザはなかなか下りない。やむなく通過査証を使っ て見切り発車でフィリピン行きを決めた渡辺はま子。出発ぎりぎりになってフィリピン政府からビザが下 りる。これで晴れて戦犯慰問の名目でモンテンルパへと向かう事が出来たのである。「ああモンテンルパ の夜は更けて」には心ない人からの売名との中傷もあった。しかし海外渡航、それも戦犯の収容されてい る刑務所訪問など困難極まりない話を最後まで諦めずに実現させた渡辺はま子の熱意、これを本物と言わ ずして何と言おう。

モンテンルパの受刑者たちとの感激の対面を果たし、懐かしい日本の歌の数々を披露した渡辺はま子。 明けて昭和28年、「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーを刻んだオルゴールがある人の元に贈 られた。フィリピンのキリノ大統領である。ようやくの思いで大統領との面会を果たした加賀尾秀忍は、 卑屈な泣き落としでの戦犯減刑などは頼まず、ただキリノ大統領にオルゴールを渡した。静かにオルゴー ルの音色に耳を傾けたキリノ大統領は「この哀しい歌は何という曲か」と加賀尾に問うた。「モンテンル パの死刑囚が作った曲である」との加賀尾の答えに、キリノ大統領はしばし沈思した。その後、1時間、 キリノ大統領は自身の戦争中の思い出を静かに加賀尾に語ったという。それは昭和20年、日米のマニラ市 街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と娘を失った話であった。加賀尾とキリノ大統領との 面会から1ヵ月、昭和28年6/27、モンテンルパの全受刑囚の日本送還と、全死刑囚59人の無期への減刑 がフィリピン政府によって発表されたのだった。7/22午前8時40分、白山丸にて一行は横浜大桟橋に帰 国した。

晩年
昭和56年、勲四等宝冠章を受賞。昭和60年におしどり夫婦として知られた渡辺の夫が亡くなったショック もあり、この頃から認知症を発症、平成元年に引退。引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあ り、家族以外の者との会話がほぼ困難になり、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の平成 11年のクリスマスの日、長女は渡辺にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気 のため表情を変えることのなかった渡辺が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。遺言に従 い親族だけで密葬を済ませ、平成12年1月、かつての所属会社のビクターから正式に渡辺の死が明らかに された。


参考リンク;
渡辺はま子 (Wikipedia)
誰か昭和を想わざる モンテンルパの夜は更けて
誰か昭和を想わざる 昭和歌手名鑑

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