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2007年7月に作成された記事

2007年7月30日 (月)

ベ平連 小田実(1932年6月2日-2007年7月30日)

ベ平連 小田実 ( 1932年6月2日 -2007年7月30日 )



小田実(おだ まこと、1932年6月2日 -2007年7月30日 )は日本の作家、平和活動家。ベ平連(Beheiren)創設者。
1932年大阪市生まれ。45年の敗戦前日の8月14日に大阪大空襲を体験、そこで目の当たりにして後に「難死」と呼んだ「無意味な死」への怒りが言論活動や市民運動の源泉となった。
東大卒業後にフルブライト留学生として渡米。南米や欧州、アジアなどを回った旅行記「何でも見てやろう」(1961年)はベストセラーとなった。
2002年、米国の雑誌タイムズ(アジア版)で、「アジアの英雄」に選ばれた。
2007年5月自身が胃ガンである事を公表した。同年7月30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去。享年75歳。自宅は兵庫県西宮市大浜町1の41の801。
奇しくも、安倍内閣成立後の初の大きな国政選挙となる第21回参院選で、自民党が1955年結党後に、初めて(自民党にとっての)野党が第一党になるという惨敗の結果を生んだこの日、ベ平連で共に活動した作家、小中陽太郎は、小田の思い出をこう振り返った。
「45年にわたる付き合い。人生の師であると同時に同志。小田さんの意義はただの市民がベトナム戦争を境に大きな運動を作ったこと。政治家になるのではなく、あくまで市民としての立場から発言するのが小田さんの基本だった。大きく日本の政治が変わるかもしれないこの時、激動の時期の夜に亡くなるというのは小田さんらしい波乱の人生だった」


小田実の葬儀は8月4日午後、東京都港区の青山葬儀所であり、作家の大江健三郎や井上ひさし、評論家の加藤周一、元衆院議長の土井たか子ら約800人が別れをつげた。
葬儀のあと、地下鉄の青山一丁目駅近くまで、有志が追悼のデモをした。
葬儀で、鶴見は「黒船到着以来の日本の150年の中で、ジョン万次郎と肩を並べる大きな人」、加藤は「彼の呼びかけは格別の説得力をもっていた。今も私たちに呼びかけているし、その呼びかけに応えるところに、我々の希望は開けている」と述べた。このほか日本文学者のドナルド・キーンらが、文学でも市民活動でも国際的なスケールだった小田をしのんだ。

小田実葬儀での吉川勇一による弔辞(全文)
吉川勇一「小田実の遺志」◎難死の原点を真剣に生きる(全文)
鶴見俊輔「共同の旅はつづく」 (『朝日新聞』2007年7月31日)
吉岡忍「小田実 さんについての文 3編」(全文)

訃報を伝えるニュース動画(1)(クリックして再生)
訃報を伝えるニュース動画(2)(クリックして再生)

ベ平連時代から晩年のニュース動画(クリックして再生)

ベ平連


beheiren ベ平連 - The Intrepid Four - 1967


森達也放送禁止歌』ドキュメンタリー
「かつてフォークソングが時代の花形だった1960〜1970年代には体制を批判したり 、揶揄したりする数々のプロテストソングが生まれ、"放送禁止歌"の烙印を押され、い つの間にか闇へと消えていった。そう、あの数々の歌は一体どこにいってしまったのだろうか?」
フジテ レビ NONFIX 1999/5/22放送





Price for Love & Peace: Walk out of the War
documentary film of Beheiren made by independent filmmaker ; Masayo Sodeyama


小田は60年安保の時期から、平和運動を開始する。1965年2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」など、アメリカ軍のベトナム戦争に対する本格軍事介入を受けて、哲学者の鶴見俊輔、作家の開高健、政治学者の高畠通敏らと、1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」を結成。同年、吉川勇一が事務局長になる。その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。1974年1月に、パリ協定調印後のアメリカ軍のベトナムからの全面撤退を受け解散した。
1967年4月には画家岡本太郎・筆の日本語で「殺すな」と大書した反戦広告を米ワシントン・ポスト紙に掲載する。
また、1971年12月にはジェーン・フォンダらの米FTAショー・グループ来日と連帯。12月13日に FTAショーは、沖縄のコザ琉米親善センターで、超満員2千名の米兵を前に公演した。

沖縄でのFTAショー(ドキュメンタリー映画"Sir! No Sir!"からの引用)

ドキュメンタリー映画"FTA"(全編 ; GoogleVideoより)
Fuck The Army is an inspiring 1972 film that follows the Fuck The Army tour throughout Asia during the Vietnam War, rallying thousands and thousands of GIs against US imperialism.


参考 ; 沖縄コザ暴動 - 1970


    小田実によるベ平連の格言 ;
    1.何でもいいから好きなことをやれ!
    2.他人のすることにとやかく文句を言うな!
    3.行動を提案するなら、まず自分が先にやれ!
    (出典 ; 小田実「私は死がこわい」p.255)


いわゆる新左翼党派からは、ベ平連にたいし「小ブルジョア市民主義者」「ソ連邦の極東戦略の共犯」との批判もあった。当時、革マル派はベトナム戦争について「スターリニストに軍服を着た労働者である米兵を殺させる(ゆえにベトナム戦争反対)」という立場であり、中核派は「北部ベトナムホー・チ・ミン政府=南ベトナム民族解放戦線不支持・ベトナム人民連帯」(その立場から1975年のベトナムの最終的勝利を「サイゴン失陥」=米帝は誤ってサイゴンを陥落させた=『解放勢力』の勝利そのものは支持しない、の意)と表現したように、「反スターリン主義派」はアメリカ(帝国主義)と戦う勢力ならば無条件で支持する、というような立場からはほど遠かった。しかし、全共闘運動新左翼思想/世界観に胚胎するこうした極端な前衛/独善主義は対立党派間での内ゲバの先鋭化を促し、70年代には「反革命」の肉体的殲滅を志向する殺し合いの常態化した「戦争」状態に陥った。

ベ平連は中心的な指導部が全体を統制するのではない、ある種のネットワーク型の組織や、自由意思による参加が原則で、政治的信条や思想を問わない、「来る者拒まず、去る者追わず」という異なるものを排除しない論理、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、それまで既成組織(社共の革新政党や労働組合)が中心になって行った教条的で閉鎖的な市民運動の枠を大きく超えた反戦平和運動であった。小田はその支柱となった。ベ平連にはマルクス主義者も少なくなかったが、小田はマルクス主義を始め特定の思想を決して信奉しなかった。ベ平連に全共闘運動出身の若者が流入し、「内ゲバをも辞さない討論と対決のなかからのみ、強固な連帯が生れる」と主張したとき、小田は彼らを「人間」や「連帯」に絶望したことのない「ひとりよがりの甘ちゃん」とみなした。ベ平連を新左翼系の若者が批判しても、「まあ、どうでもいいんだよ」とうけ流していた。小田はよく、「人間みなチョボチョボや」と述べた。万人が常に偉大であることはありえないが、「どんな人間でも、あるときには、偉大であり得る、正しくあり得る、誠実であり得る、美しくあり得る」というのが持論だった。懐疑主義者でありながら作家であり社会運動家だった、彼らしい信念だった。小田はおそらく、自分が欠点皆無の偉大な英雄だったと描かれることは好まないだろう。しかし彼は、「あるとき」には偉大であり、誠実であり、美しかった。彼自身の望みであるかはわからないが、歴史に名を残す人物だったことはまちがいない。

反戦脱走米兵援助
ベ平連はアメリカ軍の良心的脱走兵の支援も行い、これらの活動はベ平連とは別にJATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)として運営され、ソビエト連邦などの支援を受け、ソ連極東部のウラジオストックへの定期便やレポ船などを使い、少数の脱走兵をスウェーデンなどの軍事中立国に脱出させる事に成功した。
尚、スウェーデンに渡った元反戦米脱走兵のテリー・ホイットモアが、7月11日、アメリカ、メンフィス(彼の故郷)の復員軍人医療センター(Veterans Medical Center)で死去し、7月21日、ジオン寺院(Zion TempleCOGIC)で葬儀が行なわれていた。墓地は New Park Cemetry on Horn Lake Rd.。
小田の死に先立つ突然の訃報であった。

参照元Link ;
小田実のホームページ
旧「ベ平連」運動の情報ページ
吉川勇一の個人ホームページ
ベ平連DATABASE ; 作成:山本崇記(立命館大学先端総合学術研究科)
小田実の著作(Amazon)
岡本太郎と「殺すな」 ; 岡本敏子(岡本太郎記念館館長)へのインタビュー
ベ平連の京都での街頭行動(「古川豪の写真館」 より)
鶴見良行 文庫
ベトナム戦争脱走兵のホイットモアさんに会った(鈴木邦男 ; 今週の主張・2004年6月7日)
訃報(朝日新聞) ; 作家の小田実さんが死去 国際的な反戦運動に尽力
訃報(毎日新聞) ; <小田実さん死去>市民の視線貫く 国動かした行動力
訃報(産経 ZAKZAK) ; 小田実激動の夜に死す…ベ平連、「何でも見てやろう」
訃報(Livedoor PJニュース) ; 【追悼】小田実さん死去。生前、パブリック・ジャーナリズムの方向性語る

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2007年7月20日 (金)

宮本顕治 (1908年10月17日 - 2007年7月18日)

宮本顕治 ( 1908年10月17日 - 2007年7月18日 )


宮本顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日 - 2007年7月18日)は、山口県光市上島田出身の日本の文芸評論家、政治家、元参議院議員。日本共産党の元中央委員会議長で、2000年11月からは名誉役員。晩年は東京都多摩市聖蹟桜ヶ丘の私邸で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。 最晩年は体調不良により入退院を繰り返す日々であったが、2007年7月18日2時33分、老衰のため都内の病院で死去した。98歳であった。

訃報のビデオ(1)を見る
訃報のビデオ(2)を見る

参考 ; 日共 六全協 - 1955

参考 ; 伊藤律 帰国事件 - 1980

各紙の報道より ;
宮本顕治さん死去(赤旗)
宮本顕治さん死去にあたって 志位和夫(赤旗)
宮本元議長の密葬しめやかに(赤旗)
宮本顕治元共産党議長、死去(産経新聞)
「好敵手だった」「最後の大物の一人」宮本元議長死去(産経新聞)
首相「ご冥福祈る」 宮本氏死去で各党から悼む声(産経新聞)
「大きな仕事された」志位共産党委員長 宮本前最高議長死去(産経新聞)
【評伝】マニュアル革命家の偽善 宮本顕治元共産党議長、死去(産経新聞)
朝日新聞
時事通信
毎日新聞 特別編集委員・岸井成格
毎日新聞
読売新聞
読売新聞地方版(出身地・山口県光市での反応)
愛媛新聞(宮本の出身校・旧制松山高校が愛媛県所在)

関連Link ;
宮本百合子(Wikipedia)
共産党問題、社会主義問題を考える(宮地健一のホームページ)
れんだいこの「日共解体新書」
『社会・労働運動大年表』データベース(法政大学大原社会問題研究所)
パンフレット「真実を見つめて下さい。共産主義の真実」(2000年の衆院選挙の際、全国的に配布)

参考 ; 伊藤律と沖縄

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2007年7月16日 (月)

重信房子 インタビュー 1973

重信房子 インタビュー 1973





 無名にて死なば星らにまぎれんか         
         輝く空の生贄として (寺山修司)


 

重信房子 ( Fusako Shigenobu ) は、日本赤軍 ( Japanese Red Army )の最高指導者。1971年2月共産主義者同盟赤軍派国際根拠地論に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚。1972年5月30日、奥平剛士は、民間人ら100人以上を殺傷したテルアビブ空港乱射事件 ( Lod Airport massacre )で死亡

「日本赤軍と東アジア反日武装戦線」(無限回廊)
四方田犬彦パレスチナ・ナウ」より;

1971年2月にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』で司会を務めていた山口淑子は、クルーを組織してレバノン、イスラエル、エジプトを取材し、難民キャンプの実態を「中東レポート」として日本のお茶の間に紹介した。彼女はその後、足掛け三年にわたってパレスチナ問題のTV報道を続けた。三年目の1973年ヨーロッパで、重信房子のインタビュー取材に成功、同年の8月14日に放送され、テレビ大賞優秀賞を受けた。

 

参考;本インタビューに関して、橋本敦(日本共産党)による質疑
   於・ 第084回国会 法務委員会 第13号
       (昭和五十三年六月一日(木曜日))


参考; 日本赤軍 クアラルンプール事件 - 1975

参考; 日本赤軍 ダッカ日航機ハイジャック事件 - 1977

日本赤軍関連video(YouTube Playlist)


映画「実録・連合赤軍」と岡本公三

Online Videos by Veoh.com


頭脳警察世界革命戦争宣言~銃を取れ!

参照Link:
帰国者の裁判を考える会
重信房子さんを支える会

関連記事 ; 赤軍 - PFLP 世界戦争宣言

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2007年7月14日 (土)

回想 全共闘

回想 全共闘

連帯を求めて孤立を恐れず
力及ばずして倒れることを辞さないが
力尽くさずして挫けることを拒否する

回想 全共闘(YouTube Playlist)


参考: 全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968

参考: 全共闘 安田講堂攻防戦 - 1969

参照Link;
1968年全共闘だった時代
全共闘48万が立ち向かったもの
日大全共斗博物館
日大闘争by日大全共闘
東京大学安田講堂での記録写真

時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(1)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(2)
時代に生きた新左翼・歴史群像~山本義隆(3)
山本義隆(Wikipedia)
山本義隆 著作(Amazon)
今井澄(Wikipedia)
全学共闘会議(Wikipedia)
東大紛争(Wikipedia)

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2007年7月 8日 (日)

Tokyo in 1967 - the combustion point

Tokyo in 1967 - the combustion point

Japanese Student Movement in the Sixties ;
from Zengakuren to Zenkyoto ( The Student Left in Japan )





from the Rolling Stone mag article ; " Tokyo in 1967 "

The image of students in Tokyo getting high on imported birdseed doesn't jump to the fore.
"The simplest way for people to get marijuana was in pet stores," recalls Koji Takazawa ( 高沢皓司 ), a leader of Zenkyoto, an alliance of Japanese student movements in the 60s. "There were hemp seeds in the birdseed, so people bought the birdseed and grew their own marijuana."

Japanese Psychedelic Hippie ( フーテン族 ) in Shinjuku 1967



In the West, little is known about Japanese youth movements of the 1960s, but the Zenkyoto, Zengakuren, and other movements were hugely popular in Japan, protesting Japanese involvement in the Vietnam War, spurring interest in Western music and art, and calling a generation to action, as parallel movement did around the world.The student movement began to mobilize in 1960, when the Japan-US Joint Security Treaty was signed and thousands of University students took to the streets in protest.

Protest against the Japan-US Security Treaty in 1960



In the following years, protests grew louder and angrier, as the military campaigns escalated. "1967 was the year the student campaign really escalated," says Takazawa. "A student was killed in a conflict with riot police and as a result, there was a huge outcry and a big wave of protest." From 1967 to 1970, students at 167 Japanese universities went on strike as part of the Zenkyoto movement.



Protest against PM Eisaku Sato at Haneda Airport in 1967






Zenkyoto Movement in 1968



Zenkyoto Movement in 1969







Yukio Mishima and Zenkyoto @ University of Tokyo in 1969



"Some years later, nearly all the popular musicians in Japan had come out of that cultural stream," says Takazawa, who says members of the 60s youth movements used the Japanese cartooning tradition, Manga, in their posters and art, transforming it into the cultural force it has become.

Les Rallizes Denudes ( 裸のラリーズ )
In 1970, Les Rallizes Denudes member Wakabayashi was involved to some degree in the hijacking of a Boeing 727 orchestrated by the Japanese Red Army. Singer Takashi Mizutani was allegedly offered a role in the hijacking but turned it down.

Red Army Fraction hijacking of a Boeing 727 named "Yodo" on 31th Mar.1970



Les Rallizes Denudes - " The Night of Assassin "


Shinji Nagashima ( 永島慎二 ) - notable manga artist during zenkyoto era

  some more videos of Japanese Student Movement on YouTube
(click the logo to load the playlist)

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