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2007年3月27日 (火)

秋田明大

秋田明大

秋田 明大(あきた あけひろ、(あきた めいだい)、 1947年1月2日- )は、新左翼活動家。日大闘争時の日大全共闘議長(総帥の地位)。広島県安芸郡倉橋町出身。

秋田明大「あほう鳥」
★シングル・レコード/7インチ盤
★1976年発売。元・日大全共闘議長。両面:加藤登紀子作曲。


1968年の日大闘争で全学共闘会議議長となる。アジを得意とはしなかったが、茫洋とした包容力で、全国一の動員を誇った日大全共闘を指揮した。「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使った。1968年9月、両国講堂で3万人の学生と共に古田重二良日大理事長・会頭を糾弾後、潜伏。しかし大学側が導入した機動隊の前に次々と拠点を失い、翌1969年3月12日逮捕された。

全共闘 日大闘争 東大闘争 - 1968
いろんな事件や、闘争について、
何でもしゃべる人がいるけど、
人間、しゃべれることはたった一つだ。
自分にとって、切実な、必死なこと。
つまり身をもって闘っていることを、
やっと語れるだけだ

『若き実力者たち』沢木耕太郎著 より

related Links
全共闘世代と日本経済(InternetArchive)
東大闘争と日大闘争
日大斗争ドキュメント
日大全共斗博物館
JAPON Les Annees Rouges (日本 赤の時代)
「電脳ブント」より

上記「電脳ブント」link切れにつき、以下に再録;

広島県倉橋島出身。60年代末の全共闘運動で活躍したに活動家。日大全学共闘会議議長、全国全共闘連合副議長。現在自動車修理工場自営。 68年、二つの脱税事件が国税庁によって摘発された。日大当局=会頭古田重二良(01-70)の使途不明金22億円の脱税事件、理工学部教授による裏口入学金3千万円の脱税事件である。さらに、この不詳事は、教職員を分断するための私設警備員へのヤミ給与問題、経理課長失踪事件、ベテラン経理課員自殺事件へと連動し、マンモス私学経営が胚胎する底なしの腐敗の実体を浮き彫りにした。  

日大闘争は、これら一連の不正事件を直接契機にして始まった。 最初の闘争は、経済学部学生会が採択した抗議文が、学内掲示板から一方的に撤去されたことに対する抗議集会であり、さらに、集会直後に決行された同じ経済学部学生2000名による街頭デモとして、学内外から注目を集めた。この日大生の街頭デモは、神田白山通りの校舎前から自然発生的に始まったものであり、日大学生運動史上において、学外において敢行された初めての街頭デモであった。しかも、その短い進行距離から「200メートルデモ」と称されたが、この小さな200メートルデモは、やがて「数万の大軍」に成長し、日大学生運動史上初めての歴史的快挙として後世にまで語りつがれるようになった。  

秋田は日大経済学部在学中の一学生に過ぎなかったが、いつの間にかこの「伝説のデモ」の先頭に立っていた。闘争はたちまち全学部(11学部=14校舎)に波及した。全学総決起集会の開催、各学部全学共闘会議の結成を経て、68年、7000名が参加した日大全学共闘会議(全共闘)結成へと急展開し、議長に秋田明大を選出した。全国的な全共闘運動の昂揚のなかで、「古田体制打倒!」の掛け声は、全国学生運動の「熱い共感」を呼び、「東大=日大闘争」といわれて68年全共闘運動の双璧をなした。 「それは日大の根底的な変革闘争である。それ故に“日大革命”であり、古田体制に対する10万学生の総反逆を引き起こした“大衆闘争”であり、同時に日本最右翼大学における反逆だからこそ、必然的に戦闘性をもつのである」(日大文理闘争委編「反逆のバリケード」69年) 「あらゆる人間的な要求や希望を踏みにじられた地点から…また、過去の如何なる経験や運動とも無縁な『未開の聖域』からの闘いであった」(『大学占拠の思想』秋田編、69年)。  

日大闘争には三つの特徴点がある。  

第1の特徴は、60年代高度成長時代のマンモス私立大学が共通して内包した矛盾の露呈であったこと。高度成長時代には、大卒人数が中卒人数を上回り、大学生は100万名を突破するという世界に例を見ないような学歴構造へと激変する中で、日大の学生数は11学部11万名にふくれあがった。このような「超マスプロ私学経営」「マスプロ授業」による異常事態こそは、中堅技術労働力再生産過程に深く組込まれた当時のマンモス私立大学が直面した歪みあり、闘争の爆発はその歪みの顕在化であった。  

第2の特徴は、「体育系右翼学生教職員による日大アウシュビッツ体制」といわれた直接的暴力による学内強権支配に対して、全学的に鬱屈した憤激が沸点に達したことである。  

第3の特徴は、学問の自由、学園の自治、人間解放を掲げた典型的な「学園民主化闘争」であり、「理事総退陣、経理公開、集会の自由、不当処分撤回」の5大スローガンと、9項目の要求をスローガンに掲げて、戦闘的に展開された。  

日大全共闘は、結成直後「全学無期限バリ・スト」(バリケード・ストライキ)に突入した。これに対して大学側は職員・体育会系・私設ガードマン・右翼テロ、さらには警察機動隊を導入して校舎ロックアウト、殴り込みによる攻撃を加えてきた。学生は数百名の逮捕・負傷者を出しながらもバリケードを挟んで、奪還、破壊、再奪還の攻防戦を闘い抜いた。個別学園闘争としては学生運動史上最大規模の激闘が連日連夜、約4ヶ月間繰り返された。その結果、それまで長いあいだ団交申し入れをはぐらかし続けてきた大学当局も、遂に、暴力的圧殺という強硬路線を断念して話合いに応諾した。双方は「日大両国講堂全学集会開催」に合意し、68年9月、そのまま10時間におよぶ大衆団交(学生3万5千名が参加)を実現した。あの「伝説のデモ」以来113日目であった。  

闘争は学生側の全面勝利に終わった、かに見えた。ところが、翌日の閣僚懇談会において会頭古田重二良の盟友・首相佐藤栄作が「大衆団交は集団暴力である」と発言した。これを境にして攻防局面は急変した。機動隊はバリケード封鎖解除を強行し、秋田を含めた全共闘指導部8名に逮捕状を出して、闘争の圧殺に乗り出した。その結果、大衆団交から半年後の翌年4月には授業が再開され、キャンパスは「テルミドールの反動時代」へと逆戻りした。  

秋田は潜伏半年後に民家の雪かき中に、公務執行妨害などの容疑で逮捕・拘留された。その間に、日本学生運動史上最大の組織規模を誇る全国全共闘連合が結成された。秋田は獄中不在のまま副議長に選ばれ、全共闘運動を象徴する活動家として、学生運動史に「アキタメイダイ」の名を轟かせた。 当時の秋田は、彫りの深い顔立ちと長髪、大柄で野性的風貌を併せ持ち、若者にとっては世代の寵児でもあった。秋田達が同世代に向けて発した闘いへのメッセージに対して、同世代の二人の作家が評している。 村上龍:「佐世保で闘っていた頃の僕にとって、日大闘争を闘ったあなたは疑いもなく英雄でした」  沢木耕太郎:「僕と同じ純粋戦後派の書いた最も美しい文章…。君の第二の人生も、君自身が開こうとするなら、必ず君を待っている」 当時、学生運動活動家としての秋田は、どの政治党派にも所属しないノンセクトであった。当然のことながら、新左翼諸党派にとって秋田は入党オルグ(勧誘)の有力なターゲットであった。そればかりか、会頭古田グループからもねんごろな獄中の差し入れを受けるなど、複雑な政治的諸関係の中に位置していた。とりわけ、日大に拠点をもっていたML同盟派と中核派との微妙な党派関係の中で、秋田は、ML同盟に所属していた日大全共闘書記長田村正敏(47-98)との緊密な関係を維持していた。だが、党派的には、政治的旗幟を鮮明にしないで、あくまで無党派に自己限定しても、実践的にはなんの支障もきたさなかった。結局は、自己の存在を、全的に委ねることが可能な政治的預託先を見出せないまま、ノンセクト・ラディカル(無党派活動家)に止まった。  

秋田が選択したこの政治的決断は、全共闘運動終息以後の秋田の姿を予兆させるに十分でもあった。というのは、後にみるように、この無党派への決断は政治路線や未来への活動の展望を含めて、そのなかにおける、秋田自身の政治的役割や社会的活動への自信、確信の有無等を自分なりに考慮したうえで下した決断でもあった。そのときの決断をふくめて、結果的には、過去との政治的、社会的訣別へと連動していくことになった、と思われるからである。 69年 5月、日大闘争一周年4000名理工学部デモ、校舎内突入。     

9月、全国全共闘連合結成大会。 70年 全共闘運動は下降局面に入った。 71年 三里塚闘争、渋谷・日比谷暴動事件、爆弾闘争開始。 72年 連合赤軍浅間山荘銃撃戦事件、その直後発覚した粛清事件。 日大闘争の終局は、同時に、秋田にとっては彷徨・遍歴の時代の始まりであった。街頭で自作の詩集『幻視行』(70年)の販売を試みたが、二作目が続かなかった。テレビ局の大道具係り、中国物産展の露天商、バスの車掌、飯場生活等、さまざまな仕事を経験した。1日1食という日もあった。伝聞ではあったが、辞書を煎じて飢えを凌ごうとしたが、「その代償は下痢だった」という話も、他人事には思えなかった。 「まだ闘いの余韻もあり、生きることへの熱気が残っていた。もし、ボクが女性の全共闘活動家であったならば、多分、娼婦になっていた」  

この述懐は、理屈抜きにある確かな実感であった。さまざま手がけた仕事の中で、最高に居心地が良かったのは、仲間同士で気軽に盃を酌み交わせる飯場生活であった。そこには見栄、虚飾、追従、差別、作法等はなかった。世間の煩わしさから隔絶されたその世界は、決して己を飾ろうとしない秋田の性分には、この上なく相応しかった。

75年 映画「ピーターソンの島」(東由多加監督)に主演。 76年 レコード「あほう鳥」を吹き込む。 このような志向遍歴の中で「明日への模索」を続けようとしたが、いつの間にか、その試行錯誤にもピリオッドを打つときがきた、と思うになった。遍歴7年目にたどりついた結末が、ある一つの結論であった。 「東京にいても、ポン大(日大)卒の俺にできることは何もない…」 そう思った次の瞬間、「肩の荷が下りたように、全身の力がスーッと抜けていった。」時間にすれば、わずか2分間~3分間に過ぎなかっただろうか。だが、たとえ瞬間的な心理的作用であっても、全身を駆けめぐったあのときの衝撃的な爽快感は、いつまでも記憶の中に鮮明に残っている。 76年、秋田の決断と実行は早かった。 「では一体、どこに行くか→行く所はどこにもない→生まれた田舎に帰るしかない」 秋田は、常につきまとう「日大全共闘議長」という偶像への視線を絶つかのように、ずっしりと重くて大きい荷物を背負って、故郷の島に帰っていった。 田舎への回帰行は、ちょうどサケが生まれ故郷の川を溯るも同然であったが、その道行きは、一人の同伴者もいない夜汽車による西下の旅であった。ところが、秋田が背負ったはずの重そうな荷物の中身は、外観とはいささか肌合いを異にしていた。おおよそ、「過去の栄光」「実体のない名声」という観念の世界とは無縁であり、「偶像」という虚ろな実体ともかけ離れていた。  

秋田は、車窓に映る夜景をぼんやり眺めていた。その窓辺の夜景に自分自身の表情を重ね合わせたとき、意外にも、そこには如何なる意味においても「感傷」という高ぶった感情は、こみ上げてこなかった。そこにはいつもとは違った相貌をみせる、クールでドライな自分がいるように思えた。あの激闘の10数ヶ月から始まった運命的な青春や、いま、眼前を去来する首都圏での数年間の日々の生活を振り返りながら、その青春に最後的訣別を告げようとしているにもかかわらず、わずかな感慨を覚えたに過ぎなかった。おそらくやせ細った体躯から感性や思考が奪い去られていたのだろう。実際、自分を取り戻すには1年ちかい月日の経過が必要であった。  

とはいえ、西下の夜汽車の乗り心地は、別な意味でサバサバしていた。その理由と根拠は明白である。秋田自身は「日大全共闘議長」「全国全共闘連合副議長」という過去の肩書きに対して、「初めからどんな意味付与もしていなかった!」。10ヶ月の未決勾留を終えて東京拘置所から出てきたときも、日大闘争の巨大な歴史的意味にさえ「気が付かなかった」。そのために、栄光を背負っているという想念を抱いたことは「一度もなかった!」。しかも、封印しなければいけないような、観念としての過去は「ひとカケラも存在しなかった」のである。  

西下の車中でズームアップされた追憶は、ひたすら闘争に明け暮れる毎日、パンと牛乳だけの清貧な食生活、頬骨が骸骨のようにこけ落ちた彫りの深い顔立ちや、長髪で野武士のような風貌を映しだす鏡のなかの自分、右翼に命を狙われているというリアルな恐怖感をつねに抱きながら、「わき目も振らずひたすら愚直に闘った」という幻影だけが脳裏に焼き付いているに過ぎなかった。しかも、このように脳裏に去来する追憶の中の光景さえも、いまでは彼方に轟く遠雷にも等しかった。  

「俺は、何故騒がれてきたのだろうか…。でも、これで騒ぎは一段落してくれるだろう…。俺は、やがて誰からも見捨てられるだろう…」 そう思った途端に、規則正しく軋む夜汽車のレールの音が、疲れた脳に心地よい刺激を与えてくれた。深い眠りに落ちるにも、長い時間を必要としなかった。27歳であった。 帰郷して間もなく、広島県呉市内で親戚が経営する自動車工場で働くことになった。やがて、10年間で技術を身につけて独立し、単独で倉橋島音戸町の自動車整備工場を自営、そのまま今日に至っている。その間、ひたすら真面目一筋に働いた。親に無心したこともあるが、細々ながら糊口をしのいできた、というのが生活実感である。離婚や再婚も経験したが、一男二女の家庭は、いまではどこまでも静穏な時空にあった。  

秋田は、東大全共闘代表の山本と常に並び称され、両者は多くを語らない点でも共通している。秋田自身は過去と断絶し、帰島後もそのまま沈黙を守り続けてきた。70年安保・沖縄・全共闘運動の歴史の節目に、わずかに地方紙のインタビュー記事が、秋田の消息を伝えてきたに過ぎなかった。 ところが、一見穏やかそうにみえたが、隠棲したはずの田舎暮らしにもすきま風は吹き抜けた。最初に見舞われたのは帰島直後だった。まだ、旅装も解かないその年のうちに、予告なしに先輩の訪問を受けて、遮二無二、東京に2泊の出張旅行と相成った。その直後に「秋田明大、参議院選出馬か」のニュースが流れた。  

推薦政党は、社会党右派系(江田五月)の社会市民連合。言うまでもないが、このニュースの発信源をたぐり寄せていくと、その先には、抜群のセンスと行動力によって学生運動史上にその名を刻んだ日大全共闘議長秋田明大という「過去の栄光」があった。思うに、あの西下の車中で結んだ夢は、うたかた過ぎなかったのか、初めから心地よい寝覚めを妨げる悪夢であった、ということになりかねなかった。当時の秋田を知る同世代の若者達も、突発した事態の解釈にとまどったことは確かである。でも、結局出馬は取りやめた。 「こんなところ(政界)には、俺の居場所はない」  そう直感した秋田にとって、この椿事は、示唆的出来事であったといえるかも知れない。というのは、あの時の秋田は、早々と政治的社会的舞台から身を引いて、市井に生きる第二の人生へ向けて再出発を目指していた。この選択的決断は、秋田にとっては「正解」であったといえよう。外野席からは、つむじ風の中に光り輝いたあの青春の光芒は、まばゆいほどに記憶の中の残照であり続けた。そのような余塵漂うただ中で、秋田本人は冷徹で鮮やかな決断をきっぱりと下したのである。この鮮やかな決断こそが、アイドルタレントへの悲劇から秋田自身を救ったのである。  

いずれにせよ、このような予期せぬ出来事は例外に近かったが、その後も、さまざまな人達が直接、間接を問わず秋田の元を訪れ、忘れたころにやってきた。その内で統計的に最も多い来訪者はマスコミであった。多いときには1ヶ月に2名くらいで、質問事項も例外なくワンパターンで、いまだに恒例になっている。ごくまれには、知友人に会うこともある。もたらされる情報は、感慨深いものであった。 「全共闘種族は、皆それぞれが自分なりに波瀾万丈の人生を送ったんだな」 秋田は、かっての盟友田村がガン死したという知らせを、親友から受け取った。その際に、田村が北海道で選挙の勝手連をやっていたという話も、訃報と併せ知ったとき、秋田は懐かしさがこみ上げた。 「もしも、田村が生前に、“来てくれ”と言えば、出掛けたのに…」 秋田がかっての盟友田村に寄せたこのような優しい思いは、たんなる過去の友誼を意味しているだけではない。青春時代に抱いたあの高い志の片鱗と記憶が、たとえ、現在的には時間の経過さえも感じさせないような静穏な市井に身を置いていたとしても、脳裏のどこかにそっと影を忍ばせているのかも知れない。この影の大きさは、全共闘運動という自己存在への根底的な問いかけを迫った闘争の質量に比例しているのかも知れない。  

来訪者がすべて善意の人とは限らない。顔のない客もいる。それは明らかに「ストーカー行為にも等しい」のだ。そのような客の意図を測りかねる時は、不快感も極に達する。  「お願い! 詮索無用」 こんな貼り紙を、マジで玄関に貼り出したい衝動にも駆られるが、「変人扱い」されたくないし、そんな「勇気もない。」このような小心と無抵抗とを、加齢のせいにするには、いかにもまだ壮年に過ぎる。たんなる諦めの境地なのかも知れない。 「名札を付けて泳がされている回遊魚」 このような錯覚に襲われることもあるが、いちいち気にすると際限がない。いまは「田舎の自転車屋」のような、ごくありふれた日常の中にあって、ひたすら家族共々に安寧を願う日々を送っている。2歳足らずの末っ子を膝に、相好を崩して缶ビールをたしなむ姿が、いまは一番似つかわしい。

編著書『獄中記』(秋田明大、全共社)。『大学占拠の思想』(秋田明大編、三一新書、69)。詩集『幻視行』 (秋田明大)。参考文献『帝国主義大学解体』(日大経済学部闘争委員会編)。『反逆のバリケード』(日大文理学部闘争委員会書記局編、三一書房、69年)。『実録 山本義隆、秋田明大』(立花隆、文芸春秋10月号、69)。

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