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2006年11月15日 (水)

革労協(革命的労働者協会) - その2

★その2:「狭間派」と「労対派」の分裂~国鉄分割民営化闘争

■「狭間派」と「労対派」の分裂
1978年10月 目上委差別ビラ事件問題発生。
狭山事件を扱った映画「造花の判決」上映宣伝ビラの記載事項をめぐる問題。
差別批判を受けた当該ビラを作成した「目黒区上映委員会」=「目上委」の責任者は 革労協シンパで、
社青同中央は 「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を採択。これに乗じて、 党内で力をつけていた狭間嘉明らを中心とするグループが 滝口弘人・高見圭司らの労対グループと対立を強める。

1981年6月頃までに永井啓之 、狭間嘉明、けん(いわゆる「NHK」)らの 「狭間派」(学生の半分と労働者の一部)と、
滝口弘人、高見圭司ら他称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂。現代社を追われた滝口らの総務委員会反主流派グループは、正式な公然拠点を連帯社とし、狭間派らを「宗派グループ」と規定。

(参考:1999年に滝口弘人が、2001年に狭間嘉明が亡くなる。)

■永井グループ・西原グループの分裂~永井啓之の殺害
1980年9月15日 三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。狭間派は武装襲撃を繰り返し、拉致・監禁という事態も発生し、負傷者まで出した。

( 参考:1983~86年 「山谷争議団事件」 と 映画『山谷 やられたらやりかえせ』
1984年と1986年に、山谷地区で暗躍する暴力団(国粋会金町一家)と労働者の闘争を描いたドキュメンタリー映画「山谷(やま) やられたらやりかえせ」を製作した監督2名が、暴力団日本国粋会の組員によって相次いで暗殺される事件が起こった。)

1988年1月 前年に成田闘争の北原派から分離独立した小川派に同調した総務委員・永井啓之を中心とする永井グループが、狭間派から分裂。

1989年2月5日 永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害。

●永井啓之の殺害
1989年6月25日 内部粛清により永井啓之を埼玉県川口市の自宅から拉致し殺害、茨城県牛久市の県道隧道内で遺体が発見された。この事件で11月に狭間嘉明が殺人容疑で逮捕。
(1989年6月25日午前3時40分ごろ、埼玉県川口市差間で電話が不通になっていると、公衆電話から110番があった。
武南署員が駆けつけたところ、付近の電話線ケーブル3本が切断され、アパート2階に住む永井幹部がヘルメ ット姿の7,8人の男に襲われワゴン車で連れ去られたことが分かった。
午前10時10分ごろ、約40キロ離れた牛久市東猯穴の学園西大通り下の市道トンネルで、ビニールシートに包 まれ寝袋に入った男性の遺体を通行人が発見。鈍器のようなもので全身をメッタ打ちにされ、顔も判別できない ほどだったが、竜ケ崎署は指紋から永井幹部と断定した。
永井幹部は狭間派の中で狭間 最高幹部に次ぐ地位にあったが、大衆闘争も重視すべきだと主張したことなどから89年に除名され、独自の 機関紙を発行するなど分派活動を行っていた。
狭間派は事件の三日後に声明を発表し、「永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし放した」「マ スコミ報道によると死亡した」と永井幹部を“査問”して死なせたことを認めた。 )

1989年11月7日 北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺。

1990年11月1日 東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、 寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。

1991年1月までに関西の西原学を中心とする西原グループが、狭間派から分裂。


■国鉄分割民営化闘争
松崎明氏(「元」革マル派副議長の「倉川篤」だったとされる人物)が率いていた動労は、 国鉄分割民営化の際に労使協調路線に転向して分割を推進しつつ国労解体にも手を貸した。
分割民営化前後の内ゲバ戦争では、JR労組関係者にも多くの犠牲者が出た。 その多くが動労系の組合幹部であり、革マル派の活動家と見なされ襲撃された。

革労協による襲撃事件:
1980年9月22日 小谷昌幸(重傷)動労中央本部 教宣部長
1987年10月30日 荒川一夫(重傷)旧動労活動家
1989年12月2日 田中豊徳(死亡)JR総連・総務部長(旧動労)
1993年8月27日 中村辰夫(死亡)JR貨物関連会社社員(旧動労)他1名重傷

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