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2006年11月15日 (水)

革労協(革命的労働者協会) - その1

概況:
革労協(革命的労働者協会) は、日本の新左翼系過激派集団(社青同系)。
1999年5月の主流派と反主流派の分裂以降、熾烈な内ゲバ抗争を展開しており、 これまでに14件の襲撃事件で11人が死亡。


★その1:革労協成立~対革マル内ゲバの激化

日本社会党系セクトの系譜


■社青同解放派について
もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設したが、戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派結成にいたる。 創始者は、滝口弘人(佐々木慶明)、指導者は中原一(笠原正義)、高見圭司、狭間嘉明ら。
機関紙誌は、『解放』(旧『革命』)。学生組織は、反帝学生評議会(反帝学評)
1960年2月27日 日本社会党本部2階で社会主義青年同盟学生班協議会の結成が行なわれる。
東大に学士入学した滝口弘人が社青同東大学生班を結成(後に江田五月横路孝弘も参加)。

■三派系全学連を形成
1965年7月 都学連をブントや中核派とともに再建。
1966年 全学連をブントや中核派とともに再建。

1967・68年当時、三派全学連の二代目の委員長は横国大生で中核派秋山勝行がなった。その後、三派全学連は解体し、中核派全学連と社会党社青同解放派(人権派弁護士として高名な大口昭彦、ジャーナリスト大谷昭宏、テレビキャスターの久米宏早大解放派であり、大口は第一次早大闘争の時の日共派も参加した早大全共闘議長であった。)、共産同(ブント)系の反帝全学連が指導権を並立する。

■革労協(革命的労働者協会)について
1969年9月 革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)結成。

「10月11月決戦」 (佐藤訪米阻止に向けた一連の闘争)、生産性本部工業倶楽部、首相官邸、自民党本部、NHKに突入。

1970年 5月 社会党都本部占拠 ~6月 安保決戦 を経て、 社会党大会で、13名の除名(社青同大会で過激さが理由で除名処分となった。この除名処分は、社会党史では「社青同東京地本の解散」として扱われているという。)(以下YouTube参照)。

1971年5月30日 集会場で中核派系の全国部落研と衝突、以降組織全体で部落解放運動に関わる。

1971年6月 参議院選挙全国区に高見圭司が立候補14.6万票(次々点。1977年までに1人が任期途中で死亡したため、次点に繰り上げ)を獲得。選挙時のスローガンは「議会にゲリラを!」だった。

■対革マル内ゲバの激化
全共闘運動期:
革マル派全学連は三派全学連設立の際にも参加することなく、
60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をたたき出して全学連の名称をもぎ取って、全学連を一貫して呼称していた。
1968年12月 革マル派が早大文連支配のため、解放派メンバーを襲撃。解放派は早大より追いだされる。さらには延長戦として、1月、東大闘争のさなか、駒場の解放派も襲撃する。

●「早大戦争」期:

1972年4月28日 大阪城公園で革マル派部隊が解放派を蹴散らす。革マル派学生木下君が死亡。

1972年11月8日 革マル派が早稲田大学で早大生川口君をリンチで殺害。早稲田解放闘争(所謂「早大戦争」)が始まる。WAC(早大行動委員会)が結成され、革マル派は次々と自治会執行部から罷免される。再度、早大支配をねらう革マル派は学生集会を襲撃し出すが、自衛武装を始めたWACに、解放派、ブント等が助太刀に駆けつけけ正面戦の対峙が続く。

1973年5~6月 早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕。

1973年9月14~15日 早大新学期を前にした深夜、革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊に4時間にわたり夜襲。解放派部隊が数十名入院となる一方、革マル派のレポ2人を殺害。この件で北條委員長、永井啓之が指名手配されてしまう。

1974年 革マル派が滝口弘人他十人近くを襲撃(中延ハイツ事件)。
報復として解放派は、革マル派全学連本部創造社に対して武装襲撃。

(参考:1975年3月14日 革マル派が中核派本多延嘉書記長を暗殺。)

1975年6月24日 加藤登紀子の伊東の別荘で会議中、革マル派に襲撃され、九州大学生の石井真作が殺され、狭間嘉明が瀕死の重傷
昭和50年6/24午前5時23分、静岡の伊東市宇佐美3226-100の緑の村別荘地にある加藤登紀子(31)の別荘で、泊まっていた10人が負傷、うち3人は鉄パイプで滅多打ちにされ、その中の1人が殺されているのを、別荘地の管理人(22)が発見した。午前4時40分には、10人ぐらいの男が血だらけの男を車で運ぶのを管理人は目撃していて、うち2人は黒いヘルメットをしていた事から、別荘の10人を襲ったのはこのグループではないかと思われた。別荘は電話線が切断され、6台あった車のタイヤがすべて空気が抜かれていた。加藤は昭和47年春にこの場所に土地を取得、木造2階建ての別荘を建てていた。昭和50年6/24は雑誌の取材で吉野せいを訪ねるため出かけており、加藤は午前12時35分に特急ひたち2号で平駅に着いたところを取材陣に囲まれた。加藤は朝のテレビを見た友人からけが人が出たという話は聞いていたが、死者が出た事は聞いておらず、驚いた様子。別荘にいた10人については、自分は知らないとした。夫の藤本敏夫(31)も10人については知らないとした。正午、革マル派の上位組織の解放社が「防衛のために反撃した」などと、加藤の別荘にいた10人は対立する社青同の解放派で、別荘で軍事訓練をしていたと声明を出した。さらに解放社は加藤がこの事を承知なら、加藤にも責任を取ってもらう、などと、加藤登紀子についても殺害をほのめかすような声明を出した。殺害されたのは反帝学評系の元九大生の石井真作(26)だった。6/25午後、飯田橋のホテルグランドパレスで加藤と藤本が記者会見を行い、別荘は当日、加藤の姉の夫が友人の木村という男に貸していたと発表、木村が10人に貸したのか、さらに別な誰かにまた貸ししたのかはわからない、とした。また藤本が活動していた社学同の反帝全学連について、別荘で襲われた10人が属していた革労協の反帝学評とはまったく交流はない、とした。

報復としてこの後、10月8日に立正大で秋本君を、それから三週間後の27日に東大で梅田君をそれぞれ殺害。(秋本君は石井真作さん襲撃の実行犯の一人と 思われ、学内で情宣中に革労協の活動家6人に 頭を滅多打ちにされた上、火炎瓶を投擲され死亡。)

■組織の変質:中原一(笠原正義)の殺害~ヨーロッパ問題
●中原一(笠原正義)の殺害:
1977年2月11日 最高指導者・中原一(笠原正義)が革マル派に殺害される(茨城県取手市の国鉄常磐線取手駅西口前付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。)

●「いわゆるヨーロッパ問題」(組織原則をめぐる問題~「狭間派」・「労対派」分裂の遠因・「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線):
解放派は本来、ローザ・ルクセンブルク主義の立場に立ち、レーニン主義的・ボルシェヴィキ的な前衛党による、外部注入的な大衆指導路線を批判する姿勢であった。
このため、69年の革労協結成をめぐっては、社会党都本部の三分の一を占めた反戦派の内、革労協に参加しなかった部分である社会党内分派「革同」(社会党革命同志会)との分岐の問題があった。
(これは、ドイツ革命期における、早期の独自新党結成か、ぎりぎりまで社民内分派闘争路線を追及するか、と同様の問題である。)
このような革労協と社青同の関係整理 - 「独自新党結成=革労協(解放派)か、分派闘争路線=革労協("社会党・社青同"解放派)か」 - という組織問題を積み残したまま、中原の殺害が発生する。
対革マル戦の激化をうけて、狭間嘉明の軍事主義への押さえが弱まってしまう中で、 滝口ら後の「労対派」が、解放派本来のレーニン主義批判の立場を堅持するのに対し、学生組織・戦闘組織に影響力を持つ「狭間派」は対革マル戦のため組織性を強化する必要があるとの理由で、 レーニン主義に屈服してしまう。
両派の組織原則の相違が「狭間派」・「労対派」分裂の遠因になるとともに、「革マルのスパイ」の潜入の可能性をめぐって党内に疑心暗鬼が惹起され、以後の「内々ゲバ = 同志殺し」の伏線にもなる。

革マル派に対して全面戦争宣言「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」。

1977年4月15日 革マル派幹部藤原隆義他4名が乗車した印刷局のワゴン車を前後から車で挟み撃ちにして攻撃。攻撃の衝撃でドアを中から開けることが出来なかったのか、積荷のインクが引火したため4人は焼死。(77年中に計7人の革マル派活動家を殺害。)

(参考:1996年5月14日 国学院大多摩プラーザ校舎で、狭間派が革マル派の早大学対メンバー五十嵐を襲撃し殺害。革共同両派( = 革マル派・中核派)の「手打ち」を噂していた人たちが「青( = 革労協)が介入したね」 と論評。)

革労協による対革マル派の死亡者は23名にのぼる。
解放派が1981年に発行したパンフレット

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